ビーハイヴ


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 家の軒下に蜂の巣ができると幸福を呼ぶという。理由はわからない。いつかは忘れたけど、誰かからそんな話を聞いた気がする。ただの迷信だし、おまじないに過ぎないその話を、僕はなぜだか忘れられないでいる。
 窓から軒下を見上げると、大きな蜂の巣が見える。あくせくと働き、巣から飛び出してはせっせと蜜を集めてくる働きバチは全部メスだ。ではオスは何をしているのかというと、巣の中で引きこもっているだけで何もしない。女王蜂と交尾して、子孫を残す以外にその命に意味はない。
 女王がいて、働きバチは全部メスで、オスはただの性の奴隷。立憲君主制で、女系社会で、誰もが次の女王になれる可能性を持っている。僕は虫という虫が嫌いだったが、蜂だけは好きだった。刺されるのは、嫌だけどね。
 そう、虫も嫌いだし無視も嫌い。刺されるのも嫌だし、授業で指されるのも嫌だった。そういう中学時代を送って、高校生になって、もうすぐ大学生だ。季節も冬の終わりかけ、まもなく春到来という時分。大学は一般入試を受けずに推薦で決めた。僕は勉強が嫌いだったし、親が進学しろというから進学しただけで、通う大学なんてどこでもよかった。
 そう、きっと人生において選択なんて意味がないのだろう。進むべき道を人は進んでいる。流されようが押し出されようが、辿り着くべき場所にいつかは辿り着くのだろう。それはみんなが運命って呼んでいるやつなのかもしれない。メスの幼虫は女王蜂になることを選べないけど、女王蜂は次の女王蜂を選ぶことができる。確率は平等なはずなのに、ひどく一方的なその指名制は、神様が僕らの人生を決めているような、誰かの手のひらの上で踊らされているような、そんな不快さと諦観とを持って僕らの頭上を流れている。
 僕の高校三年間はひどく味気ないもので、やりたいこともなく、熱中できることもなく、友達も少なく、彼女もいなかった。部活や同好会や委員会にも一切所属していない。もちろん入りたいと思う部活はいくつかあったが、面倒くさかったから入るのをやめた。人づきあいが嫌いなわけではない。大勢の人間で群れるのが嫌だっただけだ。僕の通っていた高校の全校生徒はそう多くはなかったが、少人数の部活や同好会は一つもなかったのだ。しかし仮に五人以下の部活があったとしても、僕は入らなかっただろう。入りたいと思っても、入らなかっただろう。巣の中で飼い殺しにされるぐらいなら、僕は孤独でいいと思った。それに多かれ少なかれ、組織に所属するということは組織の一部として扱われるということだ。それも嫌だった。
 そうしていたら本当に一人になってしまっていたのだ。単純に、それだけだ。もちろん言葉を交わせる人は何人かいる。あの頃のように、無視される日々はもううんざりだ。でも、その話し相手は友達ではなかった。友達と呼べる人間は、誰もいなかった。学校へ行く電車の中では携帯音楽プレイヤーで音楽を聴く(眠いし、眼を閉じながらでもできるからね)。帰りの電車の中では本を読む(暇だしなぜか知らないけど電車の中って集中できるからね)。だから僕は学校の帰りに駅前のコンビニでスナック菓子やアイスを大量に買って、電車の中で数人でたむろしてバリバリムシャムシャやる行為などしたことがない。グループの中に金持ちの息子がいて、いつも奢ってくれるなどそんな恩恵を受けたことは一度だってないのだ。
 さすがに大学生になったらバイトをするのだろうが、高校時代は一貫してバイトもしたことがないし、クラスの誰か女子を好きになることもなかった。「あ、あの娘かわいいな」と思うことはあっても、告白しようなどと思うことはなかった。
 僕らは大人になるにつれてこうしたどうでもいいことも美化された思い出に変わって、単調な日々も「良かった」ことになってしまう。だから僕は今、道を外れていく一人の女の子をもう一度ちゃんとした道に戻したくて、何やかんやと頭を抱えているのだ。ひどくおせっかいで、余計なことかもしれないし、他人の決めたことをとやかく言うのは野暮かもしれない。彼女とろくに口も利いたことのない僕が何かを言ったところでどうなるというのだろう。それに、そういう知識にも疎い。僕はただ彼女がせっせと蜜を集めるのを黙って見ているほかないのだろうか。なぜかわからないけど、それは何だか悔しかった。
 いつからかクラス内である噂が流行っていた。栃木百花とちのき ももかが性風俗のバイトをやっているという。いわゆる売春ってやつなのだろう。僕はその辺の法律には全然不案内だったが、バレたら退学は免れないに違いない。それに、彼女は進学も決まっているのだ。それも取り消しになってしまうのだろう。そしてなぜ僕がこんなに慌てているのかといえば、彼女の進む大学は実は僕と同じ大学なのだ。彼女に恋愛感情を抱いているわけではないが、気になっていないと言えばそれは嘘になる。
 あらかた受験が終わり、卒業式前の休業期間まであと一週間を切っていたが、卒業しても三月三十一日までは高校生で、四月一日からは大学生。学生の身分に変わりはないからやっぱりダメだ。どっかの有名私立大の付属校で、卒業式後に酒を飲んでインターネット上のとあるソーシャルネットワーキングサービス(日記みたいなものだ)に書き込んで、それが先生にバレて留年したバカがいるということだから、僕はなんとかしたくなった。友達もいない、巣から飛び出して単身生きている、まるで存在理由もないようなオスの蜂の僕は彼女を連れ戻そうと決めた。そして、ほんのちょっぴりだけ期待していることがあった。彼女もきっと、ひとりぼっちなんだ……。僕と彼女は友達になれそうな予感があった。
「じゃあなー明石あかしー。また明日ー」
「おー、また明日ー」
 今呼ばれた明石っていうのが僕の名前だ。僕より前のあ行はいないから、単純に僕がこのクラスでは出席番号一番になる。どうして名字の五十音順だけで出席番号が決まってしまうのか、小学校の頃から不思議でならなかった。生徒をモノとして見てるのか。ロットナンバーで発注される、勉強してテストを受けて課題を提出したり発表したりするモノ。管理社会は嫌だった。大学へ行ってもこんな風に五十音順で決まってしまうのだろうか。クラス自体が五十音順で決まってしまうとも聞いたことがある。それは本当に嫌だ。そんなことになったら誰か杜撰な奴のミスとしか思えないだろう。二年も続いたらもうおしまいだ。明石、明石、明石ときてまた明石なんだろう。クラスコンパなんて誰が行くものか。
 僕の下の名前はひとえ。十二単のひとえ。変というか珍しいので、嫌がらせを受けたこともある。というか、中学時代の無視とか虫とかはこの名前が原因かもしれない。ほら、単に虫を付けたら「蝉」だし。でも僕は、蝉が羽化する瞬間はひどく美しいと思うのだけどどうだろう。まあ、蝉は嫌いなんだけどね。
 などと考えつつ……、彼女、栃木さんのあとをさりげなくつけてきた。根も葉もない噂かもしれないけど、火のないところになんとやら。目撃情報があったに違いない。僕は変な正義感を丸出しにして、電車に乗る彼女の行く末へとついていった。
 栃木さんは新宿駅で降りた。別に普通だった。風俗街があるし(いや、どこにでもあるが)、ウリをしてる女子高生なんて、ここには蜂が巣分かれするときみたいに塊になってにうじゃうじゃいる。栃木さんは日が落ちるまでプラプラ過ごして、案の定歌舞伎町に向かった。
 栃木さんは茶髪で、髪を上のほうでまとめている。服はなぜか私服になっている。どこで、いつの間に着替えたのかと突っ込みたくなるが、今時の女子高生なんてトイレで簡単に着替えて遊ぶのだ。ファッションなんてまるでわからないが、栃木さんは大人っぽい服装になっていた。大学生やOLのオフ日どころか、いかにもお水っぽい服装。何て言ったらいいのかわからないけど、とにかくそんなような大人びた格好。かくいう僕はもちろん制服。補導されないかとヒヤヒヤしながら、彼女を見失わないようにストーキングを続けた。
 翌日、栃木さんは平然と登校してきた。昨日はうっかり彼女を見失ってしまったが、どうもなんとかパブとかなんとかランドのようないかにもって店で働いているというわけではなさそうだった。そりゃそうだ。やるなら援助交際とか、そういう単独行動だろう。僕にはそれ以上のことはよくわからなかったけど、人目を忍んでやっている分そういった大胆な行動には、栃木さんは出ないだろうと思った。
 授業終了のチャイムが鳴ると、栃木さんはまるで質量がないもののようにスッと教室を出ていった。誰も見向きもしない。僕もそれに倣う。栃木さんも僕も、クラス内でのその存在はとても希薄だ。たまに挨拶や軽い雑談で声をかけてくれる人もいて、僕もそれに答えはするがその中身はほとんど空っぽだった。僕と他人との間に透明な壁が一枚挟まっていて、声は直接的には届かない。栃木さんもそれは同じかもしれない。自分とクラスとの間に確実な溝ができてしまっていて、それはついぞ埋まることはなかった。
 栃木さんはどうやら昨日とは違う場所に向かっているようだった。日によって場所が違うのか、それとも今日はたまたまそうなのか、僕は栃木さんの仕事の形態など知る由もなかったが、彼女が体を売る理由が何なのかを知りたくもあり、また逆に知ってしまうのが空恐ろしいような気がした。
 栃木さんは池袋駅で降りた。今度こそ見失わないようにあとをついていく。昨日と同じようにデパートの中の服屋やアクセサリーショップや靴屋や本屋、CDショップをぶらついていく。時間を潰しているというのではなく、単なる放課後の余暇のように思えた。
 時折他の学校の女子高生グループや手をつないだカップルなんかと出くわしたりすれ違ったりするたび、栃木さんがどこかさびしそうに映り、そして僕もそういう感傷的な気分に陥ってしまう。孤独を手に入れるのは、実に簡単だ。
 どこか飽きたようにチェーン系列の喫茶店に入り、飲み物を一つ頼んで栃木さんは窓に面したカウンター席に着いた。何を頼んだのかまではわからないが、僕も適当に飲み物を注文して、彼女の見える、少し離れた席に腰を下ろした。
 栃木さんはバッグから文庫本を取り出して真剣な顔で読んでいる。目の前の窓の外を通り過ぎていく人の往来などまったく気にも留めず、彼女はじっと物語の空想世界に浸っていた。僕は栃木さんの斜め後ろのほうから彼女を見ていたし、ブックカバーのおかげでその本がどんなタイトルでどんな内容なのかは距離もあるしまったくわからなかったけれど、やっぱり栃木さんは根は真面目な人であるということがうかがい知れた。
 気がつくと栃木さんは席を立つ準備をしている。僕も気づかれないように席を立とうとすると、栃木さんはトイレに行っただけだった。トイレから出てくると、昨日と同じような、しかし同じ服ではない格好で、しかもバッグまで違っていた。外はすでに夕暮れ、もうあと数分もすれば完全に日が落ちる時間だ。栃木さんはまさにこれから仕事へ向かう風俗嬢のように西口のラブホテル街へと歩いていった。
 人通りはそれほど多くないが、少し目を離せばすぐに見失ってしまいそうだった。僕はあたかも部活の帰りで、これからちょっとゲーセンやレンタルビデオ店に行こうかとする体を装いながら、しかしかつ栃木さんを見失わないように存在感を極力なくしながら尾行していった。
 角を曲がるとパッと彼女が消えていた。と思いきや、角を曲がってすぐのラブホテルの地下駐車場へ降りていくハイヒールの音が聞こえる。靴まで違うらしい。駐車場への入口を覗くと、まさに栃木さんが地下へと降りていくところだった。僕は納得はできなかったが栃木さんの行動は理解できたため、もういいだろうと足を百八十度回転させてその場を去った。
 噂を聞いてからただ漠然と栃木さんを何とかしようと思っていたわけではない。僕だってあれからいろいろと調べたのだ。栃木さんがやっている売春行為はデリヘル――デリバリーヘルスというものだろう。お店がなく、電話でホテルや自宅に出向いてあれこれするやつだ。僕はラブホテルに入ったことはなかったが、どうやら入るには一人ではダメらしい。なので栃木さんは地下の駐車場で見知らぬ男と待ち合わせて、ホテルに入るというわけだった。それがわかればもう十分だったし、僕はさすがに駐車場に入るのがためらわれたから帰ることにしたのだった。結局、噂は本当だった。
 とぼとぼと帰り道を歩きながら、なぜ、僕はこんなことをしているのだろうと思った。人の決めたことに余計な口出しをしたところでどうなるというのだ。だけど、やっぱり放っておけなかった。先生たちにバレて処分をくらうより先に、何とか説得できないものだろうか……。布団に入った後も、栃木さんのことが頭の中でぐるぐると回り続けた。僕は、彼女のことが好きなのだろうか……? いや、よくわからなかった。
 夢を見た。小学生の頃の夢だ。あの時も、僕は必死になって駆けずり回っていた。何か恐ろしいことを体験して、そこから逃れるように。しかし、あの時とは、いつのことだったろう。僕は、何に対して恐怖を感じたのだろう。そして今も、僕は恐怖を感じているというのだろうか。栃木さんに対して? それとも、栃木さんを追う僕自身に対して? 何もかもわからなかった。所詮夢は夢だ。無意識下の空想でしかない。やがてその夢は一点に集束し、白くなって、弾けた。
 
 

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