ビーハイヴ

 
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 翌日もまったく同じように登校した。僕の通う高校は家から電車で十数分の普通の県立高校だが、よくもまあ三年間もこれを繰り返したものだ。やっと卒業か、と思っても解放感も感慨もない。あるのは虚無感と、多少の後悔だけ。それはどこかさびしさにも似ていた。
 今日も授業が終わる。三年間のまとめみたいなもので、何をするわけでもないのだが、何となくみんな出席している。実は明日でいよいよ高校生活というものが終わってしまうのだ。僕は若干の焦りを感じた。
 栃木さんはいつものように一目散に教室を出て行った。僕はすかさず追う。追うというより、僕もいつも早々に帰っていたのでいつも通りといえばいつも通りなのだが。廊下を曲がった彼女のあとをつけ、僕も廊下を曲がると、人と鉢合わせした。僕はびっくりしたが、顔を見てさらにびっくり、他の誰でもない、栃木百花がそこに仁王立ちしていた。
 口をぱくぱくさせていると、栃木さんはキッと僕を睨みつけ、
「あんた、ここ最近あたしをストーキングしてるでしょ。やめてくんない、メーワクだから」
 泣きっ面に蜂。驚きが三倍増しになった。何てことはない、彼女はいとも簡単に僕の尾行を見破っていたのだ。
「な、なんで――」
「あんたの尾行ってへったくそすぎ! 制服姿で変装すらしてないし、同じクラスなんだから顔はバレバレ、電柱の陰にだって隠れようともしない。あたしの知り合いにそういうの詳しい人いるから紹介してあげよっか?」
 僕は何も言えなくなってしまい、呆然と彼女の口から飛び出す言葉に目をぱちくりさせているしかなかった。
「はあ……、何のつもりか知らないけど、やめないとストーカーだってことバラすわよ」
 今口を開かないと、栃木さんとは二度と喋れないような気がする。そう直感した僕は、意を決して言った。
「栃木さんの……その……変な噂を聞いて、何とかしようと思ったんだ。そういうのってやっぱり良くないと思うし、バレたらどうなるか……」
「はっ、何正義ぶってんの? あんたがストーカーってバレたほうがやばいんじゃないの? 人の心配するより自分の心配したら?」
 そう言うと栃木さんは踵を返してさっさと行ってしまった。僕の言葉はまるで伝わらず、何の意味も成さず、虚空に消えた。僕はその場に呆然と突っ立っているか、栃木さんを追っていくかの選択に迫られたが、彼女に引き寄せられるようについていった。それはひどく惨めで、情けなかった。
 僕は尾行をしようとするのをやめ、普通に栃木さんの行動に従っていった。駅の改札を抜け、電車に乗り、ターミナル駅で電車を乗り換え、電車に揺られる間も僕は、厄介な背後霊みたいに彼女に付き従っていった。
 栃木さんの降りた駅、そこは渋谷駅だった。昨日とも、おとといとも違う街。彼女はいつもこうして毎日違う街に出かけていっては蜜を集めてくるのだろうか。自分の体を売って、男から金という蜜を集める。栃木さんはさっき僕にトゲトゲした言葉の針を突き刺してきたけど、きっとどこかに彼女に命令を下す女王蜂がいるに違いない。もしくは体を売ってでもお金を稼がなければならない理由がある。僕はそう信じて疑わなかった。
 渋谷駅前のスクランブル交差点で信号待ちをしている間も、僕はじっと栃木さんの背後にいた。うなだれてうつむいて、連行される犯人みたいに。蜂に捕らえられた、哀れな獲物の虫のように。僕は、栃木さんに話しかける言葉を見つけられないまま、沈黙に苦しんでいた。
 空は今にも雨が降りそうな一面の曇り空。やっと信号が青に変わると、集団の動きに流されて栃木さんも僕も動き出した。やけに、横断歩道が長い……。どこまでも続いているんじゃないかと思った。そして、交差点の真ん中でいきなり足を止めた栃木さんにもろにぶつかってしまった。彼女は僕よりも身長が高いので、後頭部に顔を押し付けてしまった。栃木さんの髪は、いいにおいがした。
「あのさぁ、つけてくんのやめてって言ったのに何でついてくんの? 何なのあんた。人の迷惑になることやって楽しんでるわけ?」
「僕は、栃木さんに売春行為をやめてほしいだけなんだ。やっぱり、よくないと思うし」
「ハ……、何ソレ? あんたあたしの保護者かなんか? ほんとウザいんだけど。正義の味方か何かのつもり? 人の事情も知らないくせに、勝手にあれこれおせっかい焼くのやめてくんない?」
「……じゃあ、せめてその事情を話してよ。栃木さん、せっかく僕と同じ大学に行くのに、そんなのって……」
「同じ大学行くからって何? 何か期待してんの? 言っとくけど、あたしはあんたみたいな根暗大っ嫌いだから」
「それでも……! 話してくれれば、何か力になれることも……」
「誰がテメェなんかに話すかよ!」
 そう吐き捨てると、栃木さんは急いで横断歩道を渡っていってしまった。
「待って……!」
「ついてくんな!」
 信号も音が鳴り止み、点滅を始めている。気がつくと周りの人の視線が集まっていて、僕はもうそれ以上彼女を追う気になれなかった。
 やがて、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。まるで、海を逆さにしたような空。溺れそうになりながら、その雨の振り始めと同期して、僕の目には涙が滲んだ。
 パーッという車のクラクションが僕の耳をつんざいた。信号はすでに赤になっていた。僕はあわてて涙を拭うと、今歩いてきた方へ走って戻った。何ともあっけない幕切れ。僕は結局、栃木さんのためにできたことは何一つなかったのだ。彼女を鬱陶しがらせただけで、彼女のためになることは何一つできなかった。何という役立たず、何という無能。結局僕はドローンのまま、巣の中でその身を腐らせていくだけなのだ。ドローンというのはミツバチのオスのことで、その意味は「なまけもの」だ。ミツバチのメスが蜜を集めるのを誰が止められよう。いや、止めようとしたのは事実だ。だが僕は本当は……、本当は、彼女のつくったハチミツを見てみたかっただけなのだ。どんな理由、事情があって売春をしているのかを知って、できることがあるのなら手助けをしたかっただけなのだ。それはやっぱり迷惑で余計なお世話で、鬱陶しいことなのだろうか。いや、考えるまでもない。そうに決まっていた。
 渋谷のセンター街、池袋西口のラブホテル街、新宿の歌舞伎町。そのいくつものビルやホテルや建造物の窓という窓が乱反射し、僕にはその窓がまるでハニカム構造のように見えた。それは蜂の巣の構造であり、効率化の代名詞とも言えるものだ。強度はそのまま、材料だけが減っていく。ぼこぼこと心に六角形の穴が空いていく様を形容しているかのようだ。
 女性が最も簡単に大金を稼ぐ方法は自らの体を売ることだ。それは歴史が証明している。この世で最も古い職業は娼婦なのだから。そして、男はいつだって女に飢えている。僕は、いや僕らは、何と卑しく、愚かな世界に生まれてきてしまったのだろう。だが、これが世界の正常であり秩序なのだ。生物の本能は子孫を残すこと。まさに僕らは蜂の巣の中で生きているドローンなのだ。女尊男卑の現代社会の縮図、ここに極まれり。僕は叫び声を上げたい衝動を必死に抑えながら、混沌も何もない、正常でダイヤグラム通りに運行する秩序の象徴である日本の電車に乗って、秩序という枠組みの中に、あっという間に、簡単に、何の抵抗もなく飲み込まれて、消えた。
 翌日もあっけなく授業が終わった。これで三年間の高校生活は終わり。栃木さんは今日もさっさと帰っていく。僕は帰らない。最後の一人になっても、席に座ったまま、呆然と机の上を見つめていた。何時間ぐらい経ったのかわからなかったが、見回りにきた先生が帰れと言ったので、僕は帰った。それで、おしまいだった。何のエンドロールもなく、何のエンディング曲もかからず、一瞬にして画面がブラックアウトした。
 僕はデリヘルに電話をして、栃木さんが来るまでチェンジを続けて、彼女が来たらビンタされてもいいと思ったが、そんなことはしなかった。あくまでも臆病で、意志薄弱な自分が最後の最後で手にした正義の剣は、いとも簡単に朽ち果てて、粉々になってしまった。僕の心の中から結局虚無感が消えることはなく、栃木さんという存在は一層その虚無感を倍増させただけだった。何の意味もなかった。何の意味もなく、巣の中で膝を抱えて、徐々に死んでいった。
 
 

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