ビーハイヴ

 
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 大学一年目の四月はもう半分を過ぎようとしている。僕は目ぼしいサークルの新勧コンパに出席しては、格安で飲んだり食べたりしていた。でも本当に入りたいと思えるサークルが見つからず、あてどなく新勧イベントに出向いているだけだった。
 実家の軒下の蜂の巣はいつの間にか業者に頼んで撤去してもらったらしく、いつも窓から見上げていた蜂の巣はもう見えない。それは僕が引っ越す直前のことだった。僕がちょっと出かけている間に、あっという間に撤去してもらったみたいだ。せっせとつくり上げて、長年そこでハチミツを製造していたミツバチのコロニーは、人間の手によって短時間で滅んだ。あっけないものだ。
 僕は三月の終わりごろから一人暮らしを始めた。何ということはない、僕が推薦で入学した大学は、通うには少し距離があったのだ。かといって大学至近で暮らすのも嫌だったので、通いやすい駅にした。少し離れているとはいえ、自転車で十分通える距離だ。もちろん、窓の外に蜂の巣はない。
 そんな期待と好奇心に満ちた日々を送っていたある日、僕は高校の同級生に出会った。そんなに親しくはなかったのだが、高三の終わり頃、卒業式前の休みに入る数日前に挨拶を交わしたことは覚えている。名前は黒羽誠治くろば せいじ。そして彼とは中学は違ったが、小学校のとき数日間だけ同じ時間を過ごしたことがあった。すぐに離れ離れになってしまったため、それほど記憶はないけれど。
 黒羽くんも同じ大学かと思ったらそうではなかった。彼はどちらかというと不良だったが、頭もよく勉強もできた。きっと、この大学よりもずっと偏差値の高いところへ進学したのだろう。僕は大学の良し悪しなどどうでもいいと思っていたので、別に通ってる大学名を聞くことはしなかった。
 僕が授業の帰りに買い物をしようと繁華街へ出向いたら、たまたま道でばったり出くわした。黒羽くんは、そのときも僕に気さくに話しかけてきてくれた。友達のいない、根暗な僕に。
「そういや明石、聞いたか」
 僕らは少しお腹が空いていたので、何となく近くにあったファストフード店に入ってだらだらと雑談を続けていた。僕は黒羽くんのことを友達として認識してはいなかったのだが、彼にとっては一度でも会話をしたことがある人はみんな友達らしい。だけど小学校のことはほとんど憶えていないらしかった。僕もそうだったし、彼は今を大事にするスタンスを心がけていたから、それで問題なかった。
「何を?」
「栃木百花のことさ」
「えっ……」
 まさか再び彼女の名前を耳にするとは思わなかった。もう、あれっきりだと思っていたのだ。栃木さんが僕と同じ大学に進学することは決まっていたが、本当に進学したかどうかまではわからない。学部も違うし、連絡先だって知らないのだ。
「栃木さんが、どうかしたの」
「いや、明石お前、栃木の売春止めたがってただろ?」
「うん……。結局のところ、何もできなかったけど」
「なに、止めようとする意志が大事なんだよ。俺はお前と高校時代あんまり口利いたことなかったけど、あの時は生き生きして見えたぜ」
 止めようとする意志か……。確かにあの時の僕は確固たる意志を持って行動していたような気がする。空っぽだった心も、少しだけ満ちていたような気がした。それに、黒羽くんとまともに話し合ってまだ数十分しか経っていないというのに、もう僕と彼は友達みたいだった。彼のスタンスがそうさせているのかもしれないが、僕はもう彼のことを友達と呼びたかった。友達になるのに正式な手続きなんて要らないし、わざわざ言葉にして確認する必要もない。心が友達と認めれば、彼はもう友達なのだ。
「それで、栃木さんは?」
「ああ、彼女、売春やめたんだとさ」
「えっ……」
「お前の耳には入れておきたかったんだ。でも連絡先知らないから、どうしようかと思ってたんだ。でも、こうして会えてよかった。もっとひどい情報を言うが、大丈夫か」
「う、うん……」
 うんと言ったものの、正直心の準備ができていなかった。栃木さんが売春をやめたというのだけでも驚きなのに、さらにその驚きをしっちゃかめっちゃかにぐちゃ混ぜにしたのが次の言葉、
「栃木、エイズなんだ。HIVに感染したから、売春をやめた」
 頭の中が、真っ白になった。
「まあやめたというか、解雇処分になったらしいんだけどな。経緯は詳しくないが……」
「そう……なんだ……」
「ああ、悪いな、こんな話しちまって……」
「いや、いいよ。ありがとう、教えてくれて」
 僕はかろうじてそう言うので精一杯だった。あれきり、栃木さんのことを知ろうともしなかった。今でも同じように売春を続けているものだと……。そして、それでいいのだと言い聞かせてしまっていた。そう、元々そういうリスクが付き物のはずだったのに、そうだとわかっていたから僕は止めようと思っていたはずなのに、彼女に突き放された瞬間から僕は違う世界の住人になってしまったんだ。そして、なぜだかわからないが無性に栃木さんに会わなければならないという義務感のようなものがふつふつと湧き起こってきていた。
 黒羽くんとはその後、連絡先を交換して別れた。彼でも栃木さんの連絡先は知らないと言っていた。しかし偶然とは恐ろしいもので、僕は間もなく、簡単に彼女に会うことができた。まるで運命に引き寄せられるみたいに、まるで以前からここで再会できることが決まっていたみたいに。
 とあるサークルの新勧コンパだった。僕はそこで栃木さんの姿を見かけた。とはいうものの、完全な偶然でもなかった。そこで出会えたのは偶然だが、僕は栃木さんの行きそうなサークルの新勧コンパを片っ端からあたっていたのだ。栃木さんは経済学部で、エイズ感染者。それに彼女の性質をふまえると、きっとボランティアか医療援助関連だろう。これだけの情報でも、大分絞り込むことができた。
 なんだ、やっぱり、これは単純なことだった。僕は、栃木さんのことが好きだったのだ。行きそうなサークルの新勧コンパを当てられるぐらいに。なぜ惹かれたのかとか、彼女のどこに魅力を感じたのかとか、そんなことはどうだっていい。誰かを好きになるのに明確な理由付けなんて必要ないのだから。
 コンパが終わって、僕は栃木さんを呼び止めた。栃木さんは最初安心したような、それでいて怒っているような、かと思えば悲しいような、そんな複雑な表情をした。彼女の目には次第次第に涙が溢れ出してきて、僕は正直戸惑いを隠せなかった。またストーカーだなんだのと罵られるのかと思っていたからだ。周りの視線も気になったので、僕らは逃げるようにその場を後にした。
「あのときはごめんなさい。あたしのためを思って止めようとしてくれたのに、あんな突き放し方をしちゃって。でもあの時は本当に必死で、周りのことも自分のことも全然見えてなかった。本当にごめんなさい」
 僕は涙の止まらない栃木さんを仕方なく自分のアパートの部屋に上げた。女の子と二人っきりになるなんてもちろん初めてだったが、別にやましい気持ちなんてない。僕の一方的な片思いで終わってしまうかもしれないし、まだ終電には大分早い時間だった。
 いったん泣き止んだ栃木さんは僕に対して謝罪の弁を述べた。あの時僕に突き刺した棘のある言葉がそのまま彼女自身を苦しめてしまっていたらしい。ミツバチは針を刺したら死んでしまうのと同じように。僕は言葉に困って、とりあえず栃木さんが落ち着くのを待った。
「あたし、あの……エイズに罹って、親父にもぶん殴られて、どうしたらいいのかわからなくなっちゃって……。でも何かしないといけないような気がして、何か、償いのようなものを」
「いいよ、そんなの。何もしなくて、何も言わなくていいよ。黒羽くんからエイズに罹ったって聞いたときは驚いたけど、僕はエイズだからとかで簡単に接する態度を変えることはしないよ。高校じゃあんまり話せなかったけど、これから栃木さんのこともっと知りたいんだ」
「でも、あたしがウリやってたこととか、何でエイズになったのとか……」
「いいよ、そんな過去のことはもう……。話せるときが来たら話してくれれば……」
「うん……」
 それから栃木さんはもう一通り泣くと、僕と連絡先を交換して、電車に乗って帰っていった。
 栃木さんは高三の夏、憧れだった先輩に見事にフラれ、それと同時期に父親がリストラに遭ってしまい、完全にヤケを起こしてあちこち遊び歩いているうちにデリヘルの仕事を紹介されたらしい。栃木さん自身仕事を紹介されたときのことはあまり憶えていないみたいだったが、大学に進学したかった彼女は何とか入学金や学費を稼ごうと躍起になっていたらしい。普通のアルバイトよりも給料はいいし、先輩にフラれたこともあって、結果デリヘル嬢として半年ほど働いていた。よく学校にバレなかったものだと思ったが、エイズに罹れば家族にバレるのは当然で、父親からぶん殴られるのもまた当然かもしれなかった。親父さんは何とか再就職できたと話してくれたし、また大学もやめることなく通わせてくれているという。何にせよ、僕は良かったと思った。
 そして、僕は栃木さんに自分の思いを告げた。女の子に告白するなど生まれて初めてのことで、僕は真っ赤になって死ぬほど恥ずかしかったが、栃木さんは僕の思いをあっさりと受け入れてくれた。どうってことはない。あの時の僕の行動がここに来て功を奏したということだろうか。何とも奇妙な経緯だったが、こうして僕らは恋人同士になった。それも、極めてプラトニックな。たった二人だけのビーハイヴだ。女王蜂が子孫を残すことはない。でも、それで良かった。僕らには、僕らなりの生き方がある。幸福か不幸かなんて、考えなければ考えないほど幸福なのだ。
 嗚呼、この世界はまるでビーハイヴだ。たくさんの人が、たくさんの人と出会って、たくさんの人生で溢れかえっている。そんな中を僕らは二人手をつないで帰る。世界中の窓から笑い声がこぼれているのを、僕は肌で感じとった。
 
 

Thank you for reading.
2010.04.01


テーマソング:the pillows「Beehive」




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