ビーハイヴ


     1


 家の軒下に蜂の巣ができると幸福を呼ぶという。理由はわからない。いつかは忘れたけど、誰かからそんな話を聞いた気がする。ただの迷信だし、おまじないに過ぎないその話を、僕はなぜだか忘れられないでいる。
 窓から軒下を見上げると、大きな蜂の巣が見える。あくせくと働き、巣から飛び出してはせっせと蜜を集めてくる働きバチは全部メスだ。ではオスは何をしているのかというと、巣の中で引きこもっているだけで何もしない。女王蜂と交尾して、子孫を残す以外にその命に意味はない。
 女王がいて、働きバチは全部メスで、オスはただの性の奴隷。立憲君主制で、女系社会で、誰もが次の女王になれる可能性を持っている。僕は虫という虫が嫌いだったが、蜂だけは好きだった。刺されるのは、嫌だけどね。
 そう、虫も嫌いだし無視も嫌い。刺されるのも嫌だし、授業で指されるのも嫌だった。そういう中学時代を送って、高校生になって、もうすぐ大学生だ。季節も冬の終わりかけ、まもなく春到来という時分。大学は一般入試を受けずに推薦で決めた。僕は勉強が嫌いだったし、親が進学しろというから進学しただけで、通う大学なんてどこでもよかった。
 そう、きっと人生において選択なんて意味がないのだろう。進むべき道を人は進んでいる。流されようが押し出されようが、辿り着くべき場所にいつかは辿り着くのだろう。それはみんなが運命って呼んでいるやつなのかもしれない。メスの幼虫は女王蜂になることを選べないけど、女王蜂は次の女王蜂を選ぶことができる。確率は平等なはずなのに、ひどく一方的なその指名制は、神様が僕らの人生を決めているような、誰かの手のひらの上で踊らされているような、そんな不快さと諦観とを持って僕らの頭上を流れている。
 僕の高校三年間はひどく味気ないもので、やりたいこともなく、熱中できることもなく、友達も少なく、彼女もいなかった。部活や同好会や委員会にも一切所属していない。もちろん入りたいと思う部活はいくつかあったが、面倒くさかったから入るのをやめた。人づきあいが嫌いなわけではない。大勢の人間で群れるのが嫌だっただけだ。僕の通っていた高校の全校生徒はそう多くはなかったが、少人数の部活や同好会は一つもなかったのだ。しかし仮に五人以下の部活があったとしても、僕は入らなかっただろう。入りたいと思っても、入らなかっただろう。巣の中で飼い殺しにされるぐらいなら、僕は孤独でいいと思った。それに多かれ少なかれ、組織に所属するということは組織の一部として扱われるということだ。それも嫌だった。
 そうしていたら本当に一人になってしまっていたのだ。単純に、それだけだ。もちろん言葉を交わせる人は何人かいる。あの頃のように、無視される日々はもううんざりだ。でも、その話し相手は友達ではなかった。友達と呼べる人間は、誰もいなかった。学校へ行く電車の中では携帯音楽プレイヤーで音楽を聴く(眠いし、眼を閉じながらでもできるからね)。帰りの電車の中では本を読む(暇だしなぜか知らないけど電車の中って集中できるからね)。だから僕は学校の帰りに駅前のコンビニでスナック菓子やアイスを大量に買って、電車の中で数人でたむろしてバリバリムシャムシャやる行為などしたことがない。グループの中に金持ちの息子がいて、いつも奢ってくれるなどそんな恩恵を受けたことは一度だってないのだ。
 さすがに大学生になったらバイトをするのだろうが、高校時代は一貫してバイトもしたことがないし、クラスの誰か女子を好きになることもなかった。「あ、あの娘かわいいな」と思うことはあっても、告白しようなどと思うことはなかった。
 僕らは大人になるにつれてこうしたどうでもいいことも美化された思い出に変わって、単調な日々も「良かった」ことになってしまう。だから僕は今、道を外れていく一人の女の子をもう一度ちゃんとした道に戻したくて、何やかんやと頭を抱えているのだ。ひどくおせっかいで、余計なことかもしれないし、他人の決めたことをとやかく言うのは野暮かもしれない。彼女とろくに口も利いたことのない僕が何かを言ったところでどうなるというのだろう。それに、そういう知識にも疎い。僕はただ彼女がせっせと蜜を集めるのを黙って見ているほかないのだろうか。なぜかわからないけど、それは何だか悔しかった。
 いつからかクラス内である噂が流行っていた。栃木百花とちのき ももかが性風俗のバイトをやっているという。いわゆる売春ってやつなのだろう。僕はその辺の法律には全然不案内だったが、バレたら退学は免れないに違いない。それに、彼女は進学も決まっているのだ。それも取り消しになってしまうのだろう。そしてなぜ僕がこんなに慌てているのかといえば、彼女の進む大学は実は僕と同じ大学なのだ。彼女に恋愛感情を抱いているわけではないが、気になっていないと言えばそれは嘘になる。
 あらかた受験が終わり、卒業式前の休業期間まであと一週間を切っていたが、卒業しても三月三十一日までは高校生で、四月一日からは大学生。学生の身分に変わりはないからやっぱりダメだ。どっかの有名私立大の付属校で、卒業式後に酒を飲んでインターネット上のとあるソーシャルネットワーキングサービス(日記みたいなものだ)に書き込んで、それが先生にバレて留年したバカがいるということだから、僕はなんとかしたくなった。友達もいない、巣から飛び出して単身生きている、まるで存在理由もないようなオスの蜂の僕は彼女を連れ戻そうと決めた。そして、ほんのちょっぴりだけ期待していることがあった。彼女もきっと、ひとりぼっちなんだ……。僕と彼女は友達になれそうな予感があった。
「じゃあなー明石あかしー。また明日ー」
「おー、また明日ー」
 今呼ばれた明石っていうのが僕の名前だ。僕より前のあ行はいないから、単純に僕がこのクラスでは出席番号一番になる。どうして名字の五十音順だけで出席番号が決まってしまうのか、小学校の頃から不思議でならなかった。生徒をモノとして見てるのか。ロットナンバーで発注される、勉強してテストを受けて課題を提出したり発表したりするモノ。管理社会は嫌だった。大学へ行ってもこんな風に五十音順で決まってしまうのだろうか。クラス自体が五十音順で決まってしまうとも聞いたことがある。それは本当に嫌だ。そんなことになったら誰か杜撰な奴のミスとしか思えないだろう。二年も続いたらもうおしまいだ。明石、明石、明石ときてまた明石なんだろう。クラスコンパなんて誰が行くものか。
 僕の下の名前はひとえ。十二単のひとえ。変というか珍しいので、嫌がらせを受けたこともある。というか、中学時代の無視とか虫とかはこの名前が原因かもしれない。ほら、単に虫を付けたら「蝉」だし。でも僕は、蝉が羽化する瞬間はひどく美しいと思うのだけどどうだろう。まあ、蝉は嫌いなんだけどね。
 などと考えつつ……、彼女、栃木さんのあとをさりげなくつけてきた。根も葉もない噂かもしれないけど、火のないところになんとやら。目撃情報があったに違いない。僕は変な正義感を丸出しにして、電車に乗る彼女の行く末へとついていった。
 栃木さんは新宿駅で降りた。別に普通だった。風俗街があるし(いや、どこにでもあるが)、ウリをしてる女子高生なんて、ここには蜂が巣分かれするときみたいに塊になってにうじゃうじゃいる。栃木さんは日が落ちるまでプラプラ過ごして、案の定歌舞伎町に向かった。
 栃木さんは茶髪で、髪を上のほうでまとめている。服はなぜか私服になっている。どこで、いつの間に着替えたのかと突っ込みたくなるが、今時の女子高生なんてトイレで簡単に着替えて遊ぶのだ。ファッションなんてまるでわからないが、栃木さんは大人っぽい服装になっていた。大学生やOLのオフ日どころか、いかにもお水っぽい服装。何て言ったらいいのかわからないけど、とにかくそんなような大人びた格好。かくいう僕はもちろん制服。補導されないかとヒヤヒヤしながら、彼女を見失わないようにストーキングを続けた。
 翌日、栃木さんは平然と登校してきた。昨日はうっかり彼女を見失ってしまったが、どうもなんとかパブとかなんとかランドのようないかにもって店で働いているというわけではなさそうだった。そりゃそうだ。やるなら援助交際とか、そういう単独行動だろう。僕にはそれ以上のことはよくわからなかったけど、人目を忍んでやっている分そういった大胆な行動には、栃木さんは出ないだろうと思った。
 授業終了のチャイムが鳴ると、栃木さんはまるで質量がないもののようにスッと教室を出ていった。誰も見向きもしない。僕もそれに倣う。栃木さんも僕も、クラス内でのその存在はとても希薄だ。たまに挨拶や軽い雑談で声をかけてくれる人もいて、僕もそれに答えはするがその中身はほとんど空っぽだった。僕と他人との間に透明な壁が一枚挟まっていて、声は直接的には届かない。栃木さんもそれは同じかもしれない。自分とクラスとの間に確実な溝ができてしまっていて、それはついぞ埋まることはなかった。
 栃木さんはどうやら昨日とは違う場所に向かっているようだった。日によって場所が違うのか、それとも今日はたまたまそうなのか、僕は栃木さんの仕事の形態など知る由もなかったが、彼女が体を売る理由が何なのかを知りたくもあり、また逆に知ってしまうのが空恐ろしいような気がした。
 栃木さんは池袋駅で降りた。今度こそ見失わないようにあとをついていく。昨日と同じようにデパートの中の服屋やアクセサリーショップや靴屋や本屋、CDショップをぶらついていく。時間を潰しているというのではなく、単なる放課後の余暇のように思えた。
 時折他の学校の女子高生グループや手をつないだカップルなんかと出くわしたりすれ違ったりするたび、栃木さんがどこかさびしそうに映り、そして僕もそういう感傷的な気分に陥ってしまう。孤独を手に入れるのは、実に簡単だ。
 どこか飽きたようにチェーン系列の喫茶店に入り、飲み物を一つ頼んで栃木さんは窓に面したカウンター席に着いた。何を頼んだのかまではわからないが、僕も適当に飲み物を注文して、彼女の見える、少し離れた席に腰を下ろした。
 栃木さんはバッグから文庫本を取り出して真剣な顔で読んでいる。目の前の窓の外を通り過ぎていく人の往来などまったく気にも留めず、彼女はじっと物語の空想世界に浸っていた。僕は栃木さんの斜め後ろのほうから彼女を見ていたし、ブックカバーのおかげでその本がどんなタイトルでどんな内容なのかは距離もあるしまったくわからなかったけれど、やっぱり栃木さんは根は真面目な人であるということがうかがい知れた。
 気がつくと栃木さんは席を立つ準備をしている。僕も気づかれないように席を立とうとすると、栃木さんはトイレに行っただけだった。トイレから出てくると、昨日と同じような、しかし同じ服ではない格好で、しかもバッグまで違っていた。外はすでに夕暮れ、もうあと数分もすれば完全に日が落ちる時間だ。栃木さんはまさにこれから仕事へ向かう風俗嬢のように西口のラブホテル街へと歩いていった。
 人通りはそれほど多くないが、少し目を離せばすぐに見失ってしまいそうだった。僕はあたかも部活の帰りで、これからちょっとゲーセンやレンタルビデオ店に行こうかとする体を装いながら、しかしかつ栃木さんを見失わないように存在感を極力なくしながら尾行していった。
 角を曲がるとパッと彼女が消えていた。と思いきや、角を曲がってすぐのラブホテルの地下駐車場へ降りていくハイヒールの音が聞こえる。靴まで違うらしい。駐車場への入口を覗くと、まさに栃木さんが地下へと降りていくところだった。僕は納得はできなかったが栃木さんの行動は理解できたため、もういいだろうと足を百八十度回転させてその場を去った。
 噂を聞いてからただ漠然と栃木さんを何とかしようと思っていたわけではない。僕だってあれからいろいろと調べたのだ。栃木さんがやっている売春行為はデリヘル――デリバリーヘルスというものだろう。お店がなく、電話でホテルや自宅に出向いてあれこれするやつだ。僕はラブホテルに入ったことはなかったが、どうやら入るには一人ではダメらしい。なので栃木さんは地下の駐車場で見知らぬ男と待ち合わせて、ホテルに入るというわけだった。それがわかればもう十分だったし、僕はさすがに駐車場に入るのがためらわれたから帰ることにしたのだった。結局、噂は本当だった。
 とぼとぼと帰り道を歩きながら、なぜ、僕はこんなことをしているのだろうと思った。人の決めたことに余計な口出しをしたところでどうなるというのだ。だけど、やっぱり放っておけなかった。先生たちにバレて処分をくらうより先に、何とか説得できないものだろうか……。布団に入った後も、栃木さんのことが頭の中でぐるぐると回り続けた。僕は、彼女のことが好きなのだろうか……? いや、よくわからなかった。
 夢を見た。小学生の頃の夢だ。あの時も、僕は必死になって駆けずり回っていた。何か恐ろしいことを体験して、そこから逃れるように。しかし、あの時とは、いつのことだったろう。僕は、何に対して恐怖を感じたのだろう。そして今も、僕は恐怖を感じているというのだろうか。栃木さんに対して? それとも、栃木さんを追う僕自身に対して? 何もかもわからなかった。所詮夢は夢だ。無意識下の空想でしかない。やがてその夢は一点に集束し、白くなって、弾けた。
 
 
     2


 翌日もまったく同じように登校した。僕の通う高校は家から電車で十数分の普通の県立高校だが、よくもまあ三年間もこれを繰り返したものだ。やっと卒業か、と思っても解放感も感慨もない。あるのは虚無感と、多少の後悔だけ。それはどこかさびしさにも似ていた。
 今日も授業が終わる。三年間のまとめみたいなもので、何をするわけでもないのだが、何となくみんな出席している。実は明日でいよいよ高校生活というものが終わってしまうのだ。僕は若干の焦りを感じた。
 栃木さんはいつものように一目散に教室を出て行った。僕はすかさず追う。追うというより、僕もいつも早々に帰っていたのでいつも通りといえばいつも通りなのだが。廊下を曲がった彼女のあとをつけ、僕も廊下を曲がると、人と鉢合わせした。僕はびっくりしたが、顔を見てさらにびっくり、他の誰でもない、栃木百花がそこに仁王立ちしていた。
 口をぱくぱくさせていると、栃木さんはキッと僕を睨みつけ、
「あんた、ここ最近あたしをストーキングしてるでしょ。やめてくんない、メーワクだから」
 泣きっ面に蜂。驚きが三倍増しになった。何てことはない、彼女はいとも簡単に僕の尾行を見破っていたのだ。
「な、なんで――」
「あんたの尾行ってへったくそすぎ! 制服姿で変装すらしてないし、同じクラスなんだから顔はバレバレ、電柱の陰にだって隠れようともしない。あたしの知り合いにそういうの詳しい人いるから紹介してあげよっか?」
 僕は何も言えなくなってしまい、呆然と彼女の口から飛び出す言葉に目をぱちくりさせているしかなかった。
「はあ……、何のつもりか知らないけど、やめないとストーカーだってことバラすわよ」
 今口を開かないと、栃木さんとは二度と喋れないような気がする。そう直感した僕は、意を決して言った。
「栃木さんの……その……変な噂を聞いて、何とかしようと思ったんだ。そういうのってやっぱり良くないと思うし、バレたらどうなるか……」
「はっ、何正義ぶってんの? あんたがストーカーってバレたほうがやばいんじゃないの? 人の心配するより自分の心配したら?」
 そう言うと栃木さんは踵を返してさっさと行ってしまった。僕の言葉はまるで伝わらず、何の意味も成さず、虚空に消えた。僕はその場に呆然と突っ立っているか、栃木さんを追っていくかの選択に迫られたが、彼女に引き寄せられるようについていった。それはひどく惨めで、情けなかった。
 僕は尾行をしようとするのをやめ、普通に栃木さんの行動に従っていった。駅の改札を抜け、電車に乗り、ターミナル駅で電車を乗り換え、電車に揺られる間も僕は、厄介な背後霊みたいに彼女に付き従っていった。
 栃木さんの降りた駅、そこは渋谷駅だった。昨日とも、おとといとも違う街。彼女はいつもこうして毎日違う街に出かけていっては蜜を集めてくるのだろうか。自分の体を売って、男から金という蜜を集める。栃木さんはさっき僕にトゲトゲした言葉の針を突き刺してきたけど、きっとどこかに彼女に命令を下す女王蜂がいるに違いない。もしくは体を売ってでもお金を稼がなければならない理由がある。僕はそう信じて疑わなかった。
 渋谷駅前のスクランブル交差点で信号待ちをしている間も、僕はじっと栃木さんの背後にいた。うなだれてうつむいて、連行される犯人みたいに。蜂に捕らえられた、哀れな獲物の虫のように。僕は、栃木さんに話しかける言葉を見つけられないまま、沈黙に苦しんでいた。
 空は今にも雨が降りそうな一面の曇り空。やっと信号が青に変わると、集団の動きに流されて栃木さんも僕も動き出した。やけに、横断歩道が長い……。どこまでも続いているんじゃないかと思った。そして、交差点の真ん中でいきなり足を止めた栃木さんにもろにぶつかってしまった。彼女は僕よりも身長が高いので、後頭部に顔を押し付けてしまった。栃木さんの髪は、いいにおいがした。
「あのさぁ、つけてくんのやめてって言ったのに何でついてくんの? 何なのあんた。人の迷惑になることやって楽しんでるわけ?」
「僕は、栃木さんに売春行為をやめてほしいだけなんだ。やっぱり、よくないと思うし」
「ハ……、何ソレ? あんたあたしの保護者かなんか? ほんとウザいんだけど。正義の味方か何かのつもり? 人の事情も知らないくせに、勝手にあれこれおせっかい焼くのやめてくんない?」
「……じゃあ、せめてその事情を話してよ。栃木さん、せっかく僕と同じ大学に行くのに、そんなのって……」
「同じ大学行くからって何? 何か期待してんの? 言っとくけど、あたしはあんたみたいな根暗大っ嫌いだから」
「それでも……! 話してくれれば、何か力になれることも……」
「誰がテメェなんかに話すかよ!」
 そう吐き捨てると、栃木さんは急いで横断歩道を渡っていってしまった。
「待って……!」
「ついてくんな!」
 信号も音が鳴り止み、点滅を始めている。気がつくと周りの人の視線が集まっていて、僕はもうそれ以上彼女を追う気になれなかった。
 やがて、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。まるで、海を逆さにしたような空。溺れそうになりながら、その雨の振り始めと同期して、僕の目には涙が滲んだ。
 パーッという車のクラクションが僕の耳をつんざいた。信号はすでに赤になっていた。僕はあわてて涙を拭うと、今歩いてきた方へ走って戻った。何ともあっけない幕切れ。僕は結局、栃木さんのためにできたことは何一つなかったのだ。彼女を鬱陶しがらせただけで、彼女のためになることは何一つできなかった。何という役立たず、何という無能。結局僕はドローンのまま、巣の中でその身を腐らせていくだけなのだ。ドローンというのはミツバチのオスのことで、その意味は「なまけもの」だ。ミツバチのメスが蜜を集めるのを誰が止められよう。いや、止めようとしたのは事実だ。だが僕は本当は……、本当は、彼女のつくったハチミツを見てみたかっただけなのだ。どんな理由、事情があって売春をしているのかを知って、できることがあるのなら手助けをしたかっただけなのだ。それはやっぱり迷惑で余計なお世話で、鬱陶しいことなのだろうか。いや、考えるまでもない。そうに決まっていた。
 渋谷のセンター街、池袋西口のラブホテル街、新宿の歌舞伎町。そのいくつものビルやホテルや建造物の窓という窓が乱反射し、僕にはその窓がまるでハニカム構造のように見えた。それは蜂の巣の構造であり、効率化の代名詞とも言えるものだ。強度はそのまま、材料だけが減っていく。ぼこぼこと心に六角形の穴が空いていく様を形容しているかのようだ。
 女性が最も簡単に大金を稼ぐ方法は自らの体を売ることだ。それは歴史が証明している。この世で最も古い職業は娼婦なのだから。そして、男はいつだって女に飢えている。僕は、いや僕らは、何と卑しく、愚かな世界に生まれてきてしまったのだろう。だが、これが世界の正常であり秩序なのだ。生物の本能は子孫を残すこと。まさに僕らは蜂の巣の中で生きているドローンなのだ。女尊男卑の現代社会の縮図、ここに極まれり。僕は叫び声を上げたい衝動を必死に抑えながら、混沌も何もない、正常でダイヤグラム通りに運行する秩序の象徴である日本の電車に乗って、秩序という枠組みの中に、あっという間に、簡単に、何の抵抗もなく飲み込まれて、消えた。
 翌日もあっけなく授業が終わった。これで三年間の高校生活は終わり。栃木さんは今日もさっさと帰っていく。僕は帰らない。最後の一人になっても、席に座ったまま、呆然と机の上を見つめていた。何時間ぐらい経ったのかわからなかったが、見回りにきた先生が帰れと言ったので、僕は帰った。それで、おしまいだった。何のエンドロールもなく、何のエンディング曲もかからず、一瞬にして画面がブラックアウトした。
 僕はデリヘルに電話をして、栃木さんが来るまでチェンジを続けて、彼女が来たらビンタされてもいいと思ったが、そんなことはしなかった。あくまでも臆病で、意志薄弱な自分が最後の最後で手にした正義の剣は、いとも簡単に朽ち果てて、粉々になってしまった。僕の心の中から結局虚無感が消えることはなく、栃木さんという存在は一層その虚無感を倍増させただけだった。何の意味もなかった。何の意味もなく、巣の中で膝を抱えて、徐々に死んでいった。
 
 
     3


 大学一年目の四月はもう半分を過ぎようとしている。僕は目ぼしいサークルの新勧コンパに出席しては、格安で飲んだり食べたりしていた。でも本当に入りたいと思えるサークルが見つからず、あてどなく新勧イベントに出向いているだけだった。
 実家の軒下の蜂の巣はいつの間にか業者に頼んで撤去してもらったらしく、いつも窓から見上げていた蜂の巣はもう見えない。それは僕が引っ越す直前のことだった。僕がちょっと出かけている間に、あっという間に撤去してもらったみたいだ。せっせとつくり上げて、長年そこでハチミツを製造していたミツバチのコロニーは、人間の手によって短時間で滅んだ。あっけないものだ。
 僕は三月の終わりごろから一人暮らしを始めた。何ということはない、僕が推薦で入学した大学は、通うには少し距離があったのだ。かといって大学至近で暮らすのも嫌だったので、通いやすい駅にした。少し離れているとはいえ、自転車で十分通える距離だ。もちろん、窓の外に蜂の巣はない。
 そんな期待と好奇心に満ちた日々を送っていたある日、僕は高校の同級生に出会った。そんなに親しくはなかったのだが、高三の終わり頃、卒業式前の休みに入る数日前に挨拶を交わしたことは覚えている。名前は黒羽誠治くろば せいじ。そして彼とは中学は違ったが、小学校のとき数日間だけ同じ時間を過ごしたことがあった。すぐに離れ離れになってしまったため、それほど記憶はないけれど。
 黒羽くんも同じ大学かと思ったらそうではなかった。彼はどちらかというと不良だったが、頭もよく勉強もできた。きっと、この大学よりもずっと偏差値の高いところへ進学したのだろう。僕は大学の良し悪しなどどうでもいいと思っていたので、別に通ってる大学名を聞くことはしなかった。
 僕が授業の帰りに買い物をしようと繁華街へ出向いたら、たまたま道でばったり出くわした。黒羽くんは、そのときも僕に気さくに話しかけてきてくれた。友達のいない、根暗な僕に。
「そういや明石、聞いたか」
 僕らは少しお腹が空いていたので、何となく近くにあったファストフード店に入ってだらだらと雑談を続けていた。僕は黒羽くんのことを友達として認識してはいなかったのだが、彼にとっては一度でも会話をしたことがある人はみんな友達らしい。だけど小学校のことはほとんど憶えていないらしかった。僕もそうだったし、彼は今を大事にするスタンスを心がけていたから、それで問題なかった。
「何を?」
「栃木百花のことさ」
「えっ……」
 まさか再び彼女の名前を耳にするとは思わなかった。もう、あれっきりだと思っていたのだ。栃木さんが僕と同じ大学に進学することは決まっていたが、本当に進学したかどうかまではわからない。学部も違うし、連絡先だって知らないのだ。
「栃木さんが、どうかしたの」
「いや、明石お前、栃木の売春止めたがってただろ?」
「うん……。結局のところ、何もできなかったけど」
「なに、止めようとする意志が大事なんだよ。俺はお前と高校時代あんまり口利いたことなかったけど、あの時は生き生きして見えたぜ」
 止めようとする意志か……。確かにあの時の僕は確固たる意志を持って行動していたような気がする。空っぽだった心も、少しだけ満ちていたような気がした。それに、黒羽くんとまともに話し合ってまだ数十分しか経っていないというのに、もう僕と彼は友達みたいだった。彼のスタンスがそうさせているのかもしれないが、僕はもう彼のことを友達と呼びたかった。友達になるのに正式な手続きなんて要らないし、わざわざ言葉にして確認する必要もない。心が友達と認めれば、彼はもう友達なのだ。
「それで、栃木さんは?」
「ああ、彼女、売春やめたんだとさ」
「えっ……」
「お前の耳には入れておきたかったんだ。でも連絡先知らないから、どうしようかと思ってたんだ。でも、こうして会えてよかった。もっとひどい情報を言うが、大丈夫か」
「う、うん……」
 うんと言ったものの、正直心の準備ができていなかった。栃木さんが売春をやめたというのだけでも驚きなのに、さらにその驚きをしっちゃかめっちゃかにぐちゃ混ぜにしたのが次の言葉、
「栃木、エイズなんだ。HIVに感染したから、売春をやめた」
 頭の中が、真っ白になった。
「まあやめたというか、解雇処分になったらしいんだけどな。経緯は詳しくないが……」
「そう……なんだ……」
「ああ、悪いな、こんな話しちまって……」
「いや、いいよ。ありがとう、教えてくれて」
 僕はかろうじてそう言うので精一杯だった。あれきり、栃木さんのことを知ろうともしなかった。今でも同じように売春を続けているものだと……。そして、それでいいのだと言い聞かせてしまっていた。そう、元々そういうリスクが付き物のはずだったのに、そうだとわかっていたから僕は止めようと思っていたはずなのに、彼女に突き放された瞬間から僕は違う世界の住人になってしまったんだ。そして、なぜだかわからないが無性に栃木さんに会わなければならないという義務感のようなものがふつふつと湧き起こってきていた。
 黒羽くんとはその後、連絡先を交換して別れた。彼でも栃木さんの連絡先は知らないと言っていた。しかし偶然とは恐ろしいもので、僕は間もなく、簡単に彼女に会うことができた。まるで運命に引き寄せられるみたいに、まるで以前からここで再会できることが決まっていたみたいに。
 とあるサークルの新勧コンパだった。僕はそこで栃木さんの姿を見かけた。とはいうものの、完全な偶然でもなかった。そこで出会えたのは偶然だが、僕は栃木さんの行きそうなサークルの新勧コンパを片っ端からあたっていたのだ。栃木さんは経済学部で、エイズ感染者。それに彼女の性質をふまえると、きっとボランティアか医療援助関連だろう。これだけの情報でも、大分絞り込むことができた。
 なんだ、やっぱり、これは単純なことだった。僕は、栃木さんのことが好きだったのだ。行きそうなサークルの新勧コンパを当てられるぐらいに。なぜ惹かれたのかとか、彼女のどこに魅力を感じたのかとか、そんなことはどうだっていい。誰かを好きになるのに明確な理由付けなんて必要ないのだから。
 コンパが終わって、僕は栃木さんを呼び止めた。栃木さんは最初安心したような、それでいて怒っているような、かと思えば悲しいような、そんな複雑な表情をした。彼女の目には次第次第に涙が溢れ出してきて、僕は正直戸惑いを隠せなかった。またストーカーだなんだのと罵られるのかと思っていたからだ。周りの視線も気になったので、僕らは逃げるようにその場を後にした。
「あのときはごめんなさい。あたしのためを思って止めようとしてくれたのに、あんな突き放し方をしちゃって。でもあの時は本当に必死で、周りのことも自分のことも全然見えてなかった。本当にごめんなさい」
 僕は涙の止まらない栃木さんを仕方なく自分のアパートの部屋に上げた。女の子と二人っきりになるなんてもちろん初めてだったが、別にやましい気持ちなんてない。僕の一方的な片思いで終わってしまうかもしれないし、まだ終電には大分早い時間だった。
 いったん泣き止んだ栃木さんは僕に対して謝罪の弁を述べた。あの時僕に突き刺した棘のある言葉がそのまま彼女自身を苦しめてしまっていたらしい。ミツバチは針を刺したら死んでしまうのと同じように。僕は言葉に困って、とりあえず栃木さんが落ち着くのを待った。
「あたし、あの……エイズに罹って、親父にもぶん殴られて、どうしたらいいのかわからなくなっちゃって……。でも何かしないといけないような気がして、何か、償いのようなものを」
「いいよ、そんなの。何もしなくて、何も言わなくていいよ。黒羽くんからエイズに罹ったって聞いたときは驚いたけど、僕はエイズだからとかで簡単に接する態度を変えることはしないよ。高校じゃあんまり話せなかったけど、これから栃木さんのこともっと知りたいんだ」
「でも、あたしがウリやってたこととか、何でエイズになったのとか……」
「いいよ、そんな過去のことはもう……。話せるときが来たら話してくれれば……」
「うん……」
 それから栃木さんはもう一通り泣くと、僕と連絡先を交換して、電車に乗って帰っていった。
 栃木さんは高三の夏、憧れだった先輩に見事にフラれ、それと同時期に父親がリストラに遭ってしまい、完全にヤケを起こしてあちこち遊び歩いているうちにデリヘルの仕事を紹介されたらしい。栃木さん自身仕事を紹介されたときのことはあまり憶えていないみたいだったが、大学に進学したかった彼女は何とか入学金や学費を稼ごうと躍起になっていたらしい。普通のアルバイトよりも給料はいいし、先輩にフラれたこともあって、結果デリヘル嬢として半年ほど働いていた。よく学校にバレなかったものだと思ったが、エイズに罹れば家族にバレるのは当然で、父親からぶん殴られるのもまた当然かもしれなかった。親父さんは何とか再就職できたと話してくれたし、また大学もやめることなく通わせてくれているという。何にせよ、僕は良かったと思った。
 そして、僕は栃木さんに自分の思いを告げた。女の子に告白するなど生まれて初めてのことで、僕は真っ赤になって死ぬほど恥ずかしかったが、栃木さんは僕の思いをあっさりと受け入れてくれた。どうってことはない。あの時の僕の行動がここに来て功を奏したということだろうか。何とも奇妙な経緯だったが、こうして僕らは恋人同士になった。それも、極めてプラトニックな。たった二人だけのビーハイヴだ。女王蜂が子孫を残すことはない。でも、それで良かった。僕らには、僕らなりの生き方がある。幸福か不幸かなんて、考えなければ考えないほど幸福なのだ。
 嗚呼、この世界はまるでビーハイヴだ。たくさんの人が、たくさんの人と出会って、たくさんの人生で溢れかえっている。そんな中を僕らは二人手をつないで帰る。世界中の窓から笑い声がこぼれているのを、僕は肌で感じとった。
 
 

Thank you for reading.
2010.04.01


テーマソング:the pillows「Beehive」




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