ハイブリッド・サムデイ


     2


 左頬は少し腫れていて痛みもまだあったが、授業に出られないほどではなかった。アザもできてはいるが、酒に酔ったただのチンピラのパンチだ、どうということはないだろう。湿布は目立つし臭うから剥がしていくことにした。切れた唇には血が滲んでいて、口の中にもまだ血の味が残っていた。歯を磨いて、シャワーを浴びて、準備を終えると俺は陽の光の中へ出た。包み込まれた春の光に、俺は昨日のことなどもうどうでもよくなっていた。気にしたほうが負けなのだ。せっかくこれから大学生活を謳歌するというのに、ストレスで体を壊すのはバカらしかった。
 それに、ようやく祐佳里のことを知れるきっかけができた。今日の昼休みにでも早速、手話サークルの門戸を叩いてみよう。
 しかし、なぜ俺は彼女のことがこんなにも気になるのだろう。声だろうか、容姿だろうか。それともただの追っかけのファンになっただけなのだろうか。自分でもよくわからなかったが、どうせまだまだ見ていないサークルはいっぱいあるのだ。手話サークルの見学もしたくなっていた。昨日のような目に遭うのは二度とごめんだが、福祉やボランティア系のサークルではそんなこともないだろう。いや、そうであってほしい。そうでなければ、日本はとことん終わってるということになるかもしれないからな。
 でも現に日本は徐々に終わってきているのかもしれない。老人を対象にした詐欺もかなり減ってきてはいるものの、注意喚起の呼びかけは相変わらず続いているし、完全に払拭されたわけでもない。年金問題や高齢者への医療制度への問題も山積している。せめて俺の通う大学からは、そういった問題を起こすヤツを生み出してほしくないものだったが、昨日のことを考えるとそれも無理かもしれなかった。「せめて大学からは」ではなく、「せめて福祉学部からは」という風に規模を縮めざるを得ないだろうと俺は思った。
 気にしたほうが負けだとは言ったものの結局こうして気にしてしまっている。決めたことと実際にやっていることが噛み合わなくなってしまうときが、俺にはこうしてよくあった。そういう自分に自己嫌悪したし、そういう自分をこの四年間でなんとか変えたいとも思った。
 そんなことを考えているうちに、あっという間に大学に着いてしまう。俺のアパートから大学までは徒歩でほんの五分。あくびをしながら歩いて一瞬の距離だった。
 授業のほうは必修科目以外はほとんどガイダンス。中身はあってないようなものなので、退屈ではあったがすぐに昼休みになった。食堂で昼食をとると、俺は早速部室棟へ足を向けた。
 部室割り当て表のでかいパネルの前で俺は右から左へと視線を送り、段を変えて左から右へと戻していく。五段目にようやく手話サークルと書かれた名前を見つけた。「手話さあくるHAND CLAPPING」。こちらもなんのひねりもないありふれた名前だ。
 エレベーターで五階へと向かい、部室の扉をノックした。中から「はーい、どうぞー」という女性の声がした。俺は「失礼しまーす」と言っておそるおそるドアを開けた。
「なにキミ、一年生? サークル見学に来てくれたんだ? まあ大したものはないけど、座って座って」
 部室内には二人の女性が座っていた。ひとりはおそらく先輩だろう、自分の向かいの椅子に手を促してくれている。そして昨日殴られてまで得た情報通り、ステージで見た雰囲気とはまるで違うが、百合木祐佳里らしい人が一番奥の椅子に鎮座していた。ガーゼのマスクをしているから、表情まではよくわからない。
「あのー、手話サークルの見学もそうなんですけど、百合木祐佳里さんにも会ってみたくて来たんです。いいですか」
 祐佳里はうんともすんとも反応しなかった。代わりに隣の先輩が心底嫌そうな顔をこちらに向けた。
「はあーっ? テメェ、またその手のヤツか! どいつもこいつも祐佳里祐佳里ってなあ、こいつは見せモンじゃねーんだぞコラ! ちょっと有名になったからって、いちいちいちいち昭和の追っかけキモオタアイドルファンがつきまとって来るんじゃねえ。ステージの下で這いつくばって散々おがんでんだろぉーが! 通報すっぞコラ。どうせテメエのようなヤツらはケーサツ突き出すっつーと縮み上がるようなタマしか持ってねぇんだろうが。オイいつまで見てやがんだよテメエ」
 どうやら最悪の地雷を踏んでしまったようだ。さっきとは態度が一変した彼女はものすごい剣幕でこっちを睨みつけてくる。今にも立ち上がり、胸ぐらをつかまれて、昨日の二発じゃすまないようなパンチをいくつももらうに違いない。
 俺は瞬時に回れ右をして部室を出ようとした。この人は帰れと言っているんだ、ならば殴られないうちにさっさと従うのが正解だろう。祐佳里について、あの声について、バンドについてもっと知りたいと思ったのが間違いだった。そして手話サークルへ入るという選択肢も同時に消えたとそのときは思った。びびってなにも言えずに無言でドアに手をかけたとき、ちょうど誰かが部室内に入ってきてかち合ってしまった。俺よりも若干背の高い、茶髪の男だった。
「まあまあまあ、そう怒るなよ麻理衣まりい。キミも見学に来たってのは事実だろ? 祐佳里ちゃんの話はあとにして、まずはせっかく来てくれた新メンバーを歓迎しようって気はないのかい?」
「なにいってんだ、テメエいつから話聞いてやがった! こいつもあわよくば祐佳里と仲良くなって一発ヤッちまおーって寸法持ってやがんだよ! この大学の連中ときたらまともな倫理観すら持ってねえヤツがウジ虫みてーにウジャウジャウジャウジャわいてやがんだ! 祐佳里はアタシが守る。シナ、さっさとそいつをこっからつまみ出せ!」
「まあまあ、落ち着けよ。蓮華れんげ先輩も今日は四限ないって言ってたからそろそろ来ると思うし、サークル裁判しようぜ」
「いいから、アタシが、そいつに、手を出す前に、こっから、外へ、出せっつってんだよ!」
 麻理衣と呼ばれた女は今にもブチ切れそうな表情、いやすでに八割がたキレてしまっている。あとから来たシナと呼ばれた男は冷静だがどこかおどけた態度で、この展開をどうやら楽しんでいるようだった。一方俺のほうはというと、完全にびびってしまってまったく動けなくなってしまっていた。すっかり足が竦んでしまっている。肩に置かれたシナという男の両手の感覚すらない。
「なあ、新入生いびりはよせよ。まずは落ち着いて、話し合おう。な? この一年坊主もすっかり怯えちゃってるじゃないか。そもそも麻理衣みたいなカワイイ女の子がそんな乱暴な言葉を使うこと自体よくな――」
 フッ、とシナという男の体が宙を浮いたと思ったら、一瞬のうちに床に投げつけられていた。椅子に座っていた麻理衣というブチギレ女がいつの間にか目の前にいて、投げの動作から身を起こした。なにかの格闘技だ、次に投げられるのは俺の番――そう感じて戦慄が体を駆け巡った次の瞬間、再度部室のドアが開かれた。ドアは床に伸びている男の後頭部にクリーンヒットし、ゴズンと鈍い音が部室内に響いた。
「……うるさいねぇ、なに騒いでんの」
 小柄な女の子が入ってきた。声もやたら高い。一瞬麻理衣という女の動きが止まったように思えたが、それはすでに残像だった。やられたと思って目を閉じたが、なにも起こらなかった。数瞬前に巨大な竜巻のようなものが脇をかすめて行った気がして、俺はこわごわと目を開けてみた。すると、床に寝転がっている人間は二人に増えていた。
 麻理衣と呼ばれた女が、シナという男の隣に落っこちていた。
 
 
「ん、落ち着いたね。あっ、そーだ新入生くん、アイス食べる?」
 小さな女の子は小さな手でコンビニのポリ袋をがさがさと漁ると、カップのアイスクリームにスプーンを載せて差し出してきた。俺は口をぱくぱくと魚のように動かしたが、声は一デシベルたりとも出てくることはなかった。
 女の子は諦めたようにアイスを差し出した手を引っ込め、テーブルの上にカップを置いた。さらに袋から三つ出して、テーブルの上のカップアイスは計四つになった。女の子は横目で床に伸びている男と女に冷ややかな視線を送る。麻理衣という女ほどではないが、こちらも頭にきているといった表情だ。が、三秒でどうでもよくなったらしく、椅子にちょこんと座った。
「私の分はいいからさ、とけないうちに二人で食べちゃっておくれよ。それにしても新入生くんもユカリンも災難だったねー。この阿呆二人がいっつもギャアギャアわめき立てるから事務所のおばちゃんから怒られちゃったじゃないか。ほれほれ、ダッツだからって遠慮することはないんだよ、お食べ」
 祐佳里はこんな状況でもまったく動じていないようで、カップアイスのフタを開けてスプーンの封を切った。マスクを外して、アイスを口に入れる。いやに無表情だった。そして俺はというと、まだ口を開けたまま棒立ちになっていた。
「ほら、キミも座りなよ。立ちっぱじゃ疲れるっしょ」
「あ、あ、あ、あの……」
 ようやく絞り出せた言葉がこれ。なんとも情けない。
「座りなよ、ね?」
 小柄な女の子はニッコリと笑ってそう言った。さっきの麻理衣とは全然別格の、有無を言わせない圧倒的なオーラが滲み出ていた。従う従わないではなく、抑えつけられてしまう。俺は操り人形の糸が切れたように、ぷつんと椅子に崩れ落ちた。
「私は夕張蓮華ゆうばり れんげ。ここ、『手話さあくるHAND CLAPPING』の幹事長をやってる、福祉学部コミュニティ政策学科の三年生。誕生日はついこの間の四月四日のおひつじ座。身長は百四十六センチだけど成人の二十一歳。小学生じゃないよ? 好きな食べ物はアイス、趣味はボランティア活動、特技は合気道。ウチ、合気道の道場やってるんだー。マリリンもウチの道場生。たぶんシナっちを投げ飛ばしたのはマリリンだね。稽古ならこんな狭いところじゃなく、もっと広いところでやればいいのにねー。困っちゃうね」
 夕張蓮華と名乗った女の子はぺらぺらと自己紹介をした。なるほどあの投げ技は合気道か。そしてさっき感じた竜巻のような激しさも、合気道の技なのだろう。あの投げ技よりも上をいくスピードからして、蓮華は相当の使い手であると感じた。
「――あーっ、いってーなー」
「うーん……」
 どうやら二人が気絶から目を覚ましたようだった。
「こんのバカマリが、投げ飛ばすことねえだろうが。まったく……って、蓮華先輩、来てたんですか。あれ、バカマリも寝てるし。ああ一年生、無様なところ見せちゃって申し訳ないね。全部この怪力バカ女が悪いのさ。まったくこいつときたらいつも冗談が通じな……」
「だぁーれが怪力バカ女だってぇ?」
「うわっ、カイブツが目覚めた!」
「てめぇこのやろ……」
 ドゴンッと鈍い音が部室内に響いた。反射的に体がビクンと跳ねてしまう。さっきドアがぶつかった音よりも相当痛そうな音だ。いつの間にか二人は蓮華のゲンコツを食らっていて、頭を押さえてもんどりうっている。
「いい加減にしなさいな。新入生の前でみっともない真似晒してんじゃないよ。今この……えーっと、ゴメン、名前きいてなかったね」
 俺はまだ震えたままの声で答えた。
「あ、も、望月です」
「あんがと。私はこの望月くんと話をしてるわけだから、ちょーっとだけ黙っててくんないかなあ。なんなら外で頭を冷やしてきてもらえると大助かりなんだけど?」
 床に座って頭を押さえていた二人が立ち上がった。
「そうします。こいつと一緒にいると埒があきませんから。先輩お願いします。んじゃ、タバコでも吸ってくっかな」
「はあ? テメエ、ふざけ……」
 言いかけたところで、蓮華がギロリと睨みをきかせた。麻理衣という女は言葉を途中で飲み込んで、黙って椅子に座った。シナという男はそそくさと外へ行ってしまった。
「アタシはここにいるよ。蓮華がいれば大丈夫だろうけど、こいつがなにするかわかったもんじゃないからね」
 すっかり疑いをかけられてしまった。昨日の小駒や玉菜じゃあるまいし、俺がそんなことをするような輩に見えるのだろうか……。少しだけ、悲しくなった。
「……ホントに困ったヤツらだよ。いっつもきょうだいゲンカみたいなことばっかりして。シナっちが帰ってきたら、ちゃんと仲直りすんだよ」
「へーい」
 と言いながらも、麻理衣という女はつーんとそっぽを向いていた。
「はあ。そうだ、じゃあついでに紹介しとこう。こっちの素直じゃないのが浅見麻理衣あさみ まりい。私の幼なじみで、昔からウチの道場に来てくれてる。福祉学部の心理学科で二年生。で、頭冷やしに行ったのが仁科椒にしな しょうっていうんだ。同じく福祉学部心理学科の二年生。こっちが百合木祐佳里。福祉学部の福祉学科だね。同じく二年生だよ。まあかなーりへんちくりんな縁ではあるけど、よろしくね。さてと、そろそろ本題に入らせてもらうよん」
 蓮華はギラリとこちらを睨みつけてきた。ようやく足の震えが収まったばかりなのに、また文句をまくしたてられてしまうのだろうか。隣の麻理衣もこちらに睨みをきかせている。俺は反射的に上体を反らせて身を引いた。
「おっと、そう固くならないでおくれよ。私はこのマリリンみたいにいきなり襲いかかったりしないからさ。安心して聞いてね。でも返答次第では、考え変えちゃうかも」
 正直言ってもう逃げ出したかった。でも、おそらく逃げられはしないだろう。仮にドアノブに手をかけられたとしても、ドアを開けている暇などまったくないに違いない。目の前には腕の立つ二人が控えている。一瞬のうちに竜巻に飲み込まれてしまうのが目に見えるようだ。蓮華はまたニッコリと笑って、俺を椅子の上に繋ぎとめていた。
「望月くん、キミはただユカリンに会うためだけにここに来たのかな。それとも、本気でウチのサークルに興味があって来た。もしくはその両方とか。ユカリンのいるサークルに入って、ユカリンと一緒に課外活動したいだけ。サークルは手話じゃなくったって、なんだってよかった。さあ、どれかな?」
 ぐっと俺は詰まった。二つ目、本気で興味があったという解答以外は不正解だろう。蓮華は依然として陰のある笑みを崩さない。怖い。その笑顔が怖い……。
 でも、ここは正直に答えようと思った。ウソをついたり、あれこれ言い訳したりするのは簡単だろう。しかし、果たしてそれでいいのか。さっきは逃げ出したくなったけど、それでいいのだろうか? ここのサークルはうるさそうだし、すぐキレる先輩もいる。でも麻理衣がキレた理由は、俺が単純に祐佳里目当ての欲情丸出しのヤツだと勘違いしたからだ。実際はそれだけがすべてじゃないとわかってくれたら、もう俺に対してキレることはなくなるかもしれない。なんとなく、そんな期待をしてしまう。
 それなりにユルくて、あんまり人数も多くないところ、それでいて居心地もよくまとまりのあるところ。
 こうして軽い会議をしていても椒はタバコを吸いに行ってしまっている。自分でサークル裁判をしようと言い出したのに、こういうユルさもある。これもなにかの縁だというなら、そこに意味を見出そうとするのは愚かなことだろうか。偶然を必然と捉えるなどと。
 正直に答えよう。ウソをついたってあまり意味がないのは昨日の経験からもよくわかっている。俺は重い口を開き、答えようとした。
「俺は――」
 と、部室内に軽快な着信メロディが響いた。しまった、マナーモードにするのを忘れていた。誰からだ、こんなときに。二人の視線もあったし、外に出て通話するのもなんとなくためらわれたので、あわてて俺はその場で電話に出た。俺は焦ってしまい、誰からの着信なのかも確かめないまま通話ボタンを押した。
「もしもし」
「よう望月くん、昨日はすまなかったなァ。オレだオレ、小駒。昨日は玉菜の野郎酔いまくっててよ、悪かったなァ。んで詫びを入れたいんだが、今から言う場所にひとりで来てくれないか」
 そう言うと小駒は今いる部室棟の喫煙所のひとつの場所を告げた。詫びを入れるとは言っているが、カツアゲかなにかに決まっている。今は大事な話の最中、無視しようと思った。だが、
「おっと、せっかくこっちが謝ろうってんだ、無視しようなんて思わないでくれよ。昨日お前がライヴハウスを出て行ったあと、他のメンバーに尾行させてアパートの場所は突き止めてある。お前が今いる場所もわかっているしな。まあ今日は尾行する意味はあまりなかったかな、昨日教えた情報どおり手話サークルに顔を出してるんだからなァ。ハッハッハッ、素直なヤツだよキミは。五分後に来い。来なきゃどうなるか、わかるよな。じゃあ待ってるぜ」
 電話はいきなり切れた。五分後に喫煙所に行かなければ、おそらく昨日の玉菜か他の誰かがここに殴りこんでくるだろう。合気道の格闘家が二人いるとはいえ、このサークルの部室で問題を起こして迷惑をかけるわけにはいかない。それに相手は男だ、もしかしたら敵わないかもしれない。女の子二人に「助けてください」と言うのも気が引けた。そもそもこれは俺ひとりだけの問題だ。ここで殴りこんできたヤツを倒しても報復があるだろうし、アパートの場所まで突き止められていては従うほかない。
 どうにかして手を切る方法……それを探さなくてはならない。とりあえず最初のうちは服従するふりをしておくしかないだろうな……。
「えっと、スミマセン。急に用事ができちゃったんで、行かなくちゃならないんです。答えはまた今度でいいですか」
「んー、しょうがないね。いいよ、行ってらっしゃい」
「ありがとうございます。それじゃ、失礼します」
 俺は急いで部室を出た。ここは五階。たったの五分ではエレベータを待つ時間すらなかった。急ぎ足で階段を駆け下りる。
「よォ、来たな」
 喫煙所には、小駒がひとりで待っていた。
 
 

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