マコトノ



 本物の自分、偽物の自分、そのどちらでもない、空っぽの自分。自分の本当の姿がわからなくなって、道の真ん中で戸惑い迷うことも一度や二度じゃない。自分はどちらの仮面をつけて、どちらの道へと進むのだろう。きっと素顔じゃいられない。きっと傷つけられてしまうから。
 恐れずに、両の手にぶらさげた仮面を捨てて、迷いなく前へ進むことが大事なのかもしれない。でも、ぼくはいまだに分かれ道の前で立ち尽くしている。いくつもいくつも拡がる道のどれひとつも、選べないまま。
 友達のこと、クラスのこと、部活のこと、学校のこと。
 進路のこと、受験のこと、親のこと、そして、自分のこと。
 誰かが操ってくれればいいのに。ぼくの体を操縦して、誰かが最善の選択をしてくれればいいのにといつも思う。そうすればああだこうだと悩まずにすむし、嫌な後悔をすることだってない。
 後悔あってこその人生だって? ばからしいとぼくはいつも思う。誰だって傷つくことは恐ろしいし、他人を傷つけてしまうのも恐ろしい。そのどちらも後悔してしまうのだから、後悔はなによりも恐ろしい。
 偽物の自分を演じることは、それほど悪いことだろうか。ぼくの唯一無二の友達は演劇部に所属している。いつも、別の誰かを演じている。ぼくにはそれができないのだろう。素の性格のままで、いつも他人からは「暗い」だの「無口」だの「存在感が薄い」だの「なにを考えているのかわからない」だのと言われてきた。それが正しくて、ぼくはその度に深みにはまっていってしまう。自分でなにを考えているのか、自分が一体なにをしたいのか、自分の好きなもの、嫌いなもの、やりたいこと、やりたくないこと、将来の夢……。なにもかもわからなくなる。
 あてどない考えに支配されながら、ぼくは最後列の座席に座っている。場内が暗くなり、ようやく現実に戻ることができた。そうだ、ぼくは演劇を観に来たんだ。ぼくの通う中学の演劇部が出演する、三市合同の春の中学演劇コンクールだ。ぼくの友達もヒロイン役として登場する。演目は――
「自作の童話?」
「うん。春の演劇コンクールでやる演目。どうかな」
「どうかなって言われても」
「指定があってさ。童話・おとぎ話・昔話限定で、自作のものをやるか、既存のものなら自分たちで独自の解釈を入れてやるか。去年までは結構自由だったんだけど、なんか今年から制限入っちゃったんだよねー。主催者の意向かなんか知らないけど、ちょい面倒」
「でも、そのほうが選ぶ手間が少し」
「省けるって? そりゃそうかもしんないけど、あたしとしては自由にやりたかったかなーって。まあ、いいけどさ。それなりにやりがいもあるし。既存の童話でもいいんだけど、部員たちの間じゃなっかなか決まんなくて。それでまことにお願いがあるんだけど、いいかな」
「まさか、ぼくに書いてほしいってわけじゃないよね」
「そのま、さ、か。お願い! 演劇部じゃ誰も書ける人いなくって、どうしようもないんだ。人助けだと思って、ね? 一生に一度のお願い!」
 やれやれ……、とぼくは思って、オレンジジュースを一口飲んだ。
 ぼくは演劇部の春の演劇コンクールの演目を決める際、相談に乗ってほしいということで、昨年度二学期の期末試験が終わったあとの放課後、小学校から付き合いのあるぼくの唯一無二の友達、安部琴乃あべ ことのとモスバーガーで二人座談会を開いていたのだった。
 琴乃は演劇部の部長だ。それとは対称的に、ぼくは手芸部の幽霊部員。人間の厚みは違うかもしれないけど、この中学の嫌われ者の女子二人と言えばぼくたちは一括りに扱われてしまう。それというのも、ぼくたちの特殊な身体性が関係していた。
「既存の童話じゃダメなの? やっぱり」
 ぼくは度の入っていない伊達眼鏡越しに琴乃を見る。深緑色のセルフレーム眼鏡だ。琴乃の黒い瞳に、ぼくの顔が映り込んでいる。
「うーん、じゃ、なにがいっかなー。あたしはさ、『不思議の国のアリス』や『オズの魔法使い』なんかがいいなって思ったんだけど、自分たちなりの解釈ってのがなかなか曲者で」
 琴乃はいつも赤いヘッドホンをかけている。モンスターケーブル社製のオーバーヘッドバンドタイプで、ノイズキャンセリング機能も備わっているものだ。つやの入った真紅の色合いが目に鮮やかで眩しい。
 琴乃が常にヘッドホンをかけているのは、なにもずっと音楽を聴いていたいからではない。琴乃が耳の穴に直接はめているものを隠すためでもあり、琴乃の持つ特殊性を制御するためのものでもある。 
「アリスなら、麻薬効果のあるキノコを食べたんだー、っていう解釈が主流じゃない?」
 ぼくの眼鏡も、琴乃と同じく特殊性を隠すためにかけている。眼鏡をかけていれば、この人は視力が低いという印象を植えつけられるからだ。
「主流じゃダメだよ、独自の解釈っていう決まりがあるんだから。ウサギを追って……っていうところも変えたいし。オズだったらまず最初の竜巻だよね、変えるところ」
 琴乃の耳には特殊な補聴器がはめられている。いつもヘッドホンをかけているのは、それを隠すのがまず理由のひとつだ。もちろん琴乃は音楽が好きで、音楽を聴くことも多いから理に適っているともいえよう。
 二つ目の理由は耳を制御するためであり、保護するためである。補聴器をして、ヘッドホンもかけるのが琴乃にとってはちょうどいいらしかった。それでようやく、一般の人と同じくらいになるという。
「普通に家出ものとかになっちゃいそう。両親とケンカして家出したドロシーは、気がつくと知らない街にいました、とか」
 あえて眼鏡に度を入れて見えづらくするという方法もありだとは思うのだが、ぼくのほうは琴乃とは違い、さほど身体的な面では困ってはいないからこれでよかった。不用意に自分の見えている光景を、他人も見えているかのように話さなければ特に問題は起こらない。
「なんかフツー……。もうちょっと斬新な解釈があるならそれにしてもいいんだけど、ほらやっぱり、それも難しいって。だ、か、ら、さ、真に書いてほしいんだ」
 見た目で人は十分に変われる。いいほうにも、悪いほうにも。殊に琴乃の場合はその後者だ。授業中にヘッドホンをするわけにもいかない。体育の時間ならなおさらだ。補聴器をつけているだけで、人の注目を集めてしまう。クラス内ではさすがに二年も通っていれば慣れてしまうが、偏見は消えない。
「えーっ、嫌だよ。ぼくは書かない」
「なに言ってんの。真が小説書いてるって、あたし知ってるもん」
「えっ、なっ、なんで」
「真がケータイで小説書いてるの見ちゃったもーん」
「ええっ、いつ? なんでよ、勝手に見ないでよ」
「実は毎週、真のサイトをチェックしてる」
「……どこから突きとめたの」
「タイトルとか、ハンネとかも一緒に見えちゃったからねー。まあ、勝手に見たのは謝るよ。でもあたしは真の小説、面白いと思ってる。だからその力量を見込んで、ぜひ演劇部の脚本として使うための童話を書いてほしいんだ。お願い」
 琴乃は手を合わせて頭を下げた。そうまでされては、ぼくは頷かないわけにはいかなかった。
 琴乃の前だとこうしてなんの気兼ねもなくしゃべれるのに、どうしてほかの人の前だとうまく話せないのか。ただの人見知りなのか、それともぼくが「見えすぎる」からなのか。
 ぼくが伊達眼鏡をかけている理由、それは一般の人よりも視力が高いからだった。日本の視力測定では二.〇が最高値なので、それ以上は測らせてはもらえないし、測る意味もあまりないと頭ごなしに言われてしまう。とはいえ、アフリカなどでは六.〇以上の視力を持つ人もいるという話だから、人間の大局を捉えれば特に異常があるということにはならないだろう。しかしながら日本という共同体の中では、ぼくは偏見の対象となってしまうのだった。
 なぜそうなってしまうのかというと、必ずしも視力だけが原因ではない。ぼくの目そのものが他人にとって異端なのだろう。というのも、ぼくの瞳の色は薄い茶色をしているからだ。ほとんどの人はぼくと目を合わせるのを避けようとする。瞳の色と視力の相関関係はないが、色素が薄いため眩しさを感じることが多い。そのため日中明るい場所では目をしかめたり細めたりするのが常であり、そのせいで教室内や廊下では視線を逸らされてしまう。いつも不機嫌そうに見えるのだろう。あるいは瞳の色が黒ではないから、どこか外人に対する偏見のようなものも働いているのかもしれない。いずれにせよ、視力だけでなく瞳の色の違いによって「他者と違う存在」としてのレッテルを貼りつけられてしまっているのだ。
 そして、琴乃にもそういったレッテルが貼られている。ぼくは目だが、琴乃は耳だ。琴乃の耳は「聴こえすぎる」から、特殊な補聴器を使って周囲の音を絞ってやらねばならない。もし補聴器をつけない状態で大通りへ出たり駅のホームに立ったりすれば、それだけで激しい頭痛に襲われ、下手をすれば気を失ってしまうだろうと医者から言われているそうだ。そしてたとえ補聴器をつけていたとしても、空港へ行ったりライヴを観に行ったり、つまり騒音の多い場所へ出かけてはならないという。
 ぼくと琴乃はこうしてある身体的な特殊性を持って生まれてきた。この特殊な身体的特徴が決して誰かの役に立ったことなどないし、立つつもりもなかった。たとえぼくたちのこの特徴がどんなに優れているものなのだとしても、偏見というフィルターを通したときにはすべて異者として扱われてしまう。それも煙たがられて避けられる、ある種の畏怖を伴って。
「……わかったよ、書くよ。琴乃がそこまで言うんだったら」
「ホント? ありがと! 恩に着るよ」
「で、いつまでに?」
「うーん、そうだな、三月……は期末があるから、二月いっぱいまで。どう?」
「わかった。なんとかやってみるよ」
 ぼくたちは会話を続けながら店を出た。十二月の冷たい空気が肌に突き刺さり、無意識にコートの襟を寄せ合わせる。
「いやあ、ホント無理言っちゃって悪いね。でもなんか、こういうのって憧れるなー。友達が脚本やってくれて、あたしがそれを演じるのってさ。二人三脚のよきパートナーってカンジ。やっぱ持つべきものは友達だね! って、真以外に友達いないけどさ」
「ぼくも、琴乃以外にはいない」
「へへ。……部員のみんなからはさ、一応は部長として認められてるみたいなんだけど、やっぱり陰ではいろいろ言われてるっぽいんだ。八方美人とか、鼻にかけてるとかさ。そういうのはただの嫉妬じゃんって思うときもあるけど、耳のことを言われるのが一番つらいかな。こんな身体異常を持ちたくて持ったわけじゃないのにね」
「琴乃……」
「うん、わかってる。ごめんね、もうこんなこと言わないよ」
 どんなにつらくても挫けることのなかった琴乃が、珍しく落ち込んでいた。部長を任されたことで風当たりも強くなったことだろう、背負っているものの重さに耐えられなくなったのかもしれない。ぼくは弱音ばかり吐いているから、そういう強い心を持った琴乃がときどき羨ましくなって、憧れもする。だから本音を言うと、琴乃には弱音を吐いてほしくなかった。
 それでも誰しもが同じ人間だ。つらくなるときもある。苦しくなるときもある。そういうときは誰か不特定多数の人の前ではなく、建前でも琴乃を部長に仕立て上げてくれた部員の前ではなく、ぼくの目の前でこうして弱音を吐く琴乃がすごく身近に思えてきて、ぼくはそっと琴乃の手を握った。琴乃もより強い力で握り返してくる。小学生の頃、転校してきたばかりのぼくの手を握って、友達になったあの日のように。
 こうすることで、ぼくたちはいつもぼくたちのままでいられる。ぼくしか知らない琴乃の弱い部分とやさしい部分。世界中の人から嫌われてもいい、ぼくは、ぼくが、琴乃のことを一番よくわかっているから。
「じゃあ琴乃、いいクリスマスを。って言ってもまあ、すぐに会うけどさ。わかってるよね、二十四日」
「うん、十時に駅でね」
 クリスマス・イヴなど関係ない。ともに彼氏のいないぼくたちは二人寂しいクリスマスパーティーを開くことに決めていた。電車で二、三駅行った先の少し大き目の駅前商店街に、おいしいケーキ屋さんができたという情報をキャッチしたのだ。
「じゃあ、二十四日にね。寝坊しないでねー」
「はいはい」
「おっと」
 そう言うと琴乃はスッと体を左へ動かした。なにかを避けたみたいだった。
「真、危ないよ」
 琴乃の後ろからは自転車が来ていた。それを見て、ぼくも自転車を避けた。自転車はベルを鳴らすこともなく、ブレーキをかけることもなく、そのままの速さで走り抜けていった。まるで琴乃には後ろ側にも目がついているかのようだった。
 補聴器をつけて音を制御し、ヘッドホンまでかけているというのに、琴乃は後ろから走ってくる自転車の音を察知し、しかもどちら側へ避けたほうがいいかも判別したのだ。ベルのチリンチリンという音も、ブレーキのキーキーいう音も、琴乃にとっては障害になる。とはいえ補聴器プラスヘッドホンではさほど苦にはならないはずだが、ブレーキのキーキーいう音、あれだけは我慢ならないのだそうだ。それはぼくだって同じ。こういう気持ちが琴乃を普通の人間たらしめてくれているのだけど、みんな振り向かずに自転車を避ける琴乃の外見ばかりに目がいってしまうらしい。
「それじゃあね」
「うん、バイバイ」
 ぼくは琴乃と別れて、家路を急いだ。空はどんどん暗くなってきていた。
 そのときからぼくの苦悩が始まった。ケータイで小説を書くのと、演劇用の童話を書くのとではかなり話が違ってくる。ぼくはその日の夜と翌日、ずっと頭を悩ませていた。琴乃は締め切りを二月いっぱいに設定してくれたけど、本当は早ければ早いほうが練習に充てられる時間も多くなるから、早く提出するに越したことはない。なんとかタイトルだけでも決めよう。それに二十四日までにアイデアが浮かべば、琴乃に相談だってできる。ぼくが深夜遅くまで悩みに悩んで、なんとか決めたタイトルは――
「次は、新枇にいび市立南中学校演劇部、『高熱を出した王様』です」
 幕が左右にサーッと開き、舞台の袖からナレーターが出てくる。舞台設定は中世の城下町。どことなくアラブっぽい雰囲気が出ている。通行人が行き交い始めると、ナレーションが始まった。
「どこかの遠い遠い大陸に、とあるひとつの王国がありました。その王国にはとても不思議な力が働いており、なんと王様の体温で国の気温が決まっているのです。王様が起きている間は三十六度ほどの高い気温なのですが、王国で暮らしている国民たちは一切不平を漏らしませんでした」
 通行人たちが立ち止まって挨拶をしたり会話をしたりしている。商人たちが客引きの声を張り上げる。ナレーションは続く。
「少しでも国を涼しくしようと、王様は体を冷やし、冷たいものばかり食べていました。しかしある日のこと、それが祟って王様は高熱に倒れてしまいます」
 急激な気温の変化に暑がる国民たち。通行人がいなくなると舞台は変わり、王様の寝室へ。看病するお付きの女性と、その様子を見守るお妃様と家臣たち。
 突然舞台は暗転し、下手から出てきたみすぼらしい二人組の男にスポットライトが当たる。彼らは盗賊ではないが、この暑さに耐え切れず王様を殺そうと城に忍び込んだ二人だった。二人は王様を殺す算段を、声をひそめながらも息づかいは荒々しく話し合う。が、王様のベッドの前でナイフを振り上げるもその場に倒れてしまう。あまりの暑さで、体に力が入らなくなってしまっていたのだ。城の中は広い。十分な水分補給もできなかったのだろう。なにより暑さで食欲もなくなっていたに違いない。舞台は明るくなり、衛兵がかけよってきて二人を連行していった。
 王様も弱気になって、私を殺してほしいと頼むが、周りの家臣たちに必死に止められてしまう。家臣のひとりが話すことには、土葬の文化のこの王国では王様が死んでしまえば極寒の冬が訪れてしまうというのだ。
「東に腕利きの医者がいるという話をきけば人を送り」
 舞台は先ほどの城下町のセットへ。キャラバンが下手へと消えていく。
「西にどんな病気も治す万能薬があるときけば使いを出し」
 再びキャラバンが、今度は上手へと旅立っていく。
「南に優秀な回復魔法の使い手がいるときけば、遠征を出しました」
 三度目のキャラバンがセットの奥の方へと吸い込まれていく。
「しかし、戻ってくる者はありませんでした。高熱を出した王様の灼熱の国を出た使いたちはみんな、行く先々の穏やかな気候の土地に住み着いてしまったからなのです」
 次の舞台セットの転換は瞬時にではなく、間を入れるためにやたらゆっくりと時間をかけて入れ替わっていく。場所は、王国にある魔法学校の図書室。本を読み、なにか調べ物をしていた青年がおもむろに立ち上がる。頭の中を閃光が走ったように声高に話し始める。
 王様の体温によって気温が変わってしまうのは魔女がかけた呪いで、その魔女を倒せば王様の呪いは解け、王国は普通の気候に戻るはずだ、と。青年はさらに調べ物を続け、ついに魔女の居場所を突き止める。居ても立ってもいられなくなった彼は、その魔女を倒しに北へと向かう。背景は図書室から旅支度をする彼の家へ、そして城下町をあとに旅立っていく。
 旅路は過酷で、いくら愛国心の高い青年でも体力には限界があり、何度も何度も挫折しそうになりながらも彼はようやく北の山へと辿り着く。北の山は活火山で、青年はマグマの熱さに耐えながらも王様の身を案じ、決してその熱には屈しなかった。
 北の火山の奥深く、彼はついに魔女と相まみえた。洞窟の奥深く、青年は必死に魔女を説得しようとする。舞台の上に投げ出されたスポットライトが二つ。怪しげな薬を調合していた魔女は、振り向いて呪いをかけた理由を話し始める。
 その魔女はかつてあの王国に住んでいた。ある日魔女は王様に惹かれ、結婚を申し込むことに。しかし、王様は魔女の思いを受け入れず、なおかつ王様が今のお妃様と結婚したことで、怒った魔女は王様に呪いをかけたというのだ。
 青年も以前思いを告げた相手がいたが、断られてしまったことから魔女の気持ちを理解できてしまう。なんと愚かなことか、戦いを挑もうとする相手に同情の念を抱くなど言語道断。青年はかつての思い人の名を祈るように呟き、果敢に魔女に立ち向かっていく。
 しかし青年のかじっただけの剣術では簡単に魔女に避けられてしまう。だがどうしたことか、魔女は一向に戦おうとはしない。強力な魔法をいくつも使えるはずなのに、どこか上の空で、青年の顔を見つめたまま、振り下ろされる力の弱い青年の剣を避け続けているだけ。
 そう、なんとこの魔女は、以前青年の愛した女性その人だったのだ。それに気づいた青年は大げさなリアクションを取り、剣を振るう手を止め、地面に武器を捨てた。青年は魔女に近づき、再び自分の思いを告げる。
 魔女ははっと気づく。スポットライトが魔女だけに当たり、魔女は心情を吐露していく。王様に結婚を申し込んだのは、実は恋慕からではなく、王家の富や権力ほしさに王様に近づいたのだと。
 魔女は自分の愚かさに今になって気づき、あのとき受け入れなかった青年の思いを受け入れることにした。本当は魔女も青年のことが好きだったのに、あのときはお金ほしさに心が麻痺していたのだ。魔女はようやく真の愛を知り、お金でも権力でもなく、ただ純粋に相手のことが好きであるという気持ちに出会ったのだった。
「こうして魔女は王様の呪いを解き、王国は元通りの気候になりました。魔女はその後、青年と二人で末永く幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし」
 青年と魔女は抱き合ったまま、幕が閉じていく。舞台は王国の城下町や王室へは戻らず、そのまま青年と魔女だけ、二人きりのまま。富も権力もいらない、二人だけの国。そんな様子が表現されていた。
 体裁だけの拍手が会場内に虚しく響いた。司会係が再び袖の前から出てきて、次の学校の演目に移っていく。自分の書いた物語をこういう形で見せられて、ぼくは恥ずかしいやら誇らしいやら非常に複雑な気分だった。 
「なーんか残念、せっかく真がいい童話書いてくれたのに、なにあれ」
「まあまあ」
「でも、演技自体は問題なくできたかなー。結果こそ残せなかったけどさ。あたしはやりきったよ」
 ぼくは結局、去年のクリスマス・イヴの買い物には行けなかった。童話の中の王様のように、風邪をひいて熱を出してしまったからだ。その話ももう四ヶ月も前の話になってしまうが、童話のネタはそこから持ってきたと言っても過言ではない。ただ自分で書いておきながら、なんとなく据わりの悪い部分もあった。
「でも、終わり方はあれでよかったのかな。もっといい結末があったかも」
「いいじゃない、あれで。ラブストーリーでハッピーエンド! 童話ってのはやっぱりみんな幸せにならなくっちゃ。それよりも、あたしの演技はどうだった?」
 琴乃は北の魔女役だった。琴乃の容姿からいってお妃様のほうがはまっているとは思うが、お妃様の役はあまりセリフがないから蹴ったそうだ。部員たちも納得済みだそうだし、ぼくの書いたこの童話は北の魔女がヒロインである。
「よかったと思う」
「テキトーな返事ね」
「演劇はあまり詳しくないから。それよりも、演劇部のみんなと一緒に帰らなくてもいいの? 打ち上げとか……」
「いいのいいの。帰りたい人は帰っちゃってるし、あたしが行っても場の空気を壊しちゃうからさ」
 琴乃は寂しそうにそう言った。ぼくはふと、以前から訊きたかったことを訊いてみることにした。
「琴乃はやっぱり、将来女優になるの?」
「どうかなあ……。女優になる人ってさ、イメージなんだけど、やっぱり小さい頃から劇団に入ってたり、オーディション受けたりしとかないとなれないんじゃないのかなあ。あたしは部活でやってるだけだし、こんななりじゃスカウトだってされないでしょ」
 琴乃は皮肉的に笑いながら、耳にはめられた補聴器を指さしてみせた。障害を抱えた女優ももちろんいるが、耳が聞こえないならともかく、「聴こえすぎる」ために常に補聴器の着用を強いられているのであれば、その道へ進むのはあまりに過酷と言えた。
「普通に高校行って、大学行って、OLになるのかな。補聴器を外して演技はできないし、外見上ほとんど気にならないくらい小型のものが開発されるか、それこそ手術でもして普通の耳に取り替えてもらうしか……」
 琴乃はそこまで言って話を中断した。ぼくが暗い顔になったからかもしれない。ぼくたちは自分の特殊性を確かに疎んではいる。それでも切って離すことはできないし、たとえできたとしてもしないだろう。ぼくたちの特殊性は、ぼくたちが自分を自分であると認識するための性質のひとつなのだ。大嫌いな部分ではあったが、それは同時にひとつの個性でもあった。
「ごめんね、あたし疲れてるみたい」
「ううん、気にしないで。ぼくもときどき、目ん玉外して交換しちゃいたいなって思うことあるし……」
「あはは。まあ、今日も日向ひなたさんに愚痴言われちゃったし、落ち込んでんのかなぁー。舞台はそれなりにうまくいったし、充実感もあるのにね」
 日向さんというのは、演劇部の一年下の日向あおいさんのことで、部活では主にヘアメイクや着付けなどを担当している。どうやら琴乃のことをあからさまに嫌っているようで、嫌味を言われることも多いらしい。
「きっと僻んでるだけだよ」
「なんとか理解してもらいたいけど……、まあ無理だよね。それよりも」
 琴乃はこういう切り替えも早い。やっぱり演劇部部長は違う。
「真は将来なにになりたいの?」
「えっ、ぼく?」
「うん。真は目の色以外に外見上の特徴もないし、なんにでもなれるよ。あっ、そうだ!」
 琴乃はなにか思いついたように、目を輝かせた。まるで芽を出した夢が自分の夢でもあるかのように。
「そうだよ、真は文才があるんだし、小説家とか脚本家が向いてるんじゃない? あ、じゃあさじゃあさ、夢の第一歩として、夏の公演の脚本用にまた書いてくれない?」
「えーっ、勝手に決めて」
「いいじゃない。真の書いた童話、あたし好きだなー。って、勝手に夢とかって言っちゃったけど。将来の夢もなにもないあたしの代わりにさ、真が夢を叶えてくれたらいいなーって思って。あっ、でもでも小説家になれって強要してるわけじゃなくって、夢の内容自体は真の好きでいいんだ」
 琴乃はぼくの将来のこともそうだし、ぼくが書いた童話についてもうきうきと話してくれている。ぼくの表情はさっきの暗いものから一転して、木漏れ日が木陰を照らすように闇を払っていった。意味もなく微笑んでしまう。
「うーん、考えとく」
「やった! っていっても、まだテーマもなにも発表されてないからわからないんだけどね。今回はたまたま童話だったけどさ。どうする、次のテーマは『純愛物』とかになっちゃったら! きゃーっ」
 ぼくと琴乃は一緒に帰っていた。今日の演劇コンクールは隣の市の市民文化ホールで行われたので、駅まで歩いている途中だった。
「えーっ、そんなの、書けないよ」
「またまたあ、今回も熱々のラブストーリーを書いてくれたじゃない。ケータイ小説のほうも結構いいとこまで来てるしぃ」
 ぼくは自然と顔を赤らめてしまった。小説の恋愛展開などすべて妄想である。よく考えたら、自分のそういう恥ずかしい妄想をインターネットを通じて世に広めてしまっているわけである。ぼくは衝動的にケータイを取り出してネットに繋いだ。
「やっ、やめる、サイトやめる」
「ええっ、なんでなんで、いいじゃない。あたしも続き読みたいのにー」
「なんか、急に恥ずかしくなってきた……」
「ぷっ、あははははっ」
 夕空の下で琴乃は笑った。琴乃の周りだけ急に明るくなったように、笑い声が弾けた。琴乃の赤いヘッドホンに夕陽が反射して、一瞬目がちかりとした。きっとぼくの眼鏡の度の入っていないレンズにも光が反射したことだろう。
 琴乃からはこうして光をもらえる。ケータイを操作するぼくの指は止まって、なんとなくまだ続けてみようかなという気持ちになった。ぼくはそれから二ヶ月かけて、そのケータイ小説を完結させた。遅筆ながらも、なんとかまとめ上げることができた。次に書く作品は、琴乃の夏の演劇コンクール。中学三年生にとって、部長にとって、最後に舞台に上がる公演だ。季節は梅雨になっていた。
「あーあ、雨で屋上入れないなんて残念だねー」
「うん……。でもまあ、この時期は仕方ないよ」
「ちぇーっ。せっかくの昼休みが台なしだな。それにしても、梅雨入り早いねー」
「ここ数年遅かっただけで、別にそこまで早くないみたいだよ」
「あっ、そうなんだ。へーっ」
 ぼくたちは屋上へ出るドアの前、つまり階段の一番上の踊り場で話していた。教室内では息の詰まる昼休みの時間、晴れの日はいつもこっそり屋上へ出て、そこで二人で話していることが多い。
「ぼくは雨、そんなに嫌いじゃないな」
「そうだね、あたしも嫌いじゃないかな。なんだか雨ってさ、あたしたちみたいじゃない?」
「うん……。ぼくはともかく、琴乃はね」
 ぼくも琴乃も等しく学校の嫌われ者だが、琴乃は案外そうでもない。同性からは忌み物扱いされているが、異性からは存外好意を寄せられていることもある。
「なにそれ、嫌味? 性格がじめじめしてるってことー?」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
「わかってるよ。雨には雨のよさもあるしね。真もきっと、誰かに好かれるよ」
「そうかな」
 正直のところ、ぼくはあまりそんな気はしなかった。この視力を活かせることをしようとも考えたが、ぼくに貼られた「いつも不機嫌そうな人」というレッテルを貼られたままではきっと無理なのだろう。それを剥がす方法も、わからないでいた。
 ぼくはほんの少し離れていても相手の瞳の瞳孔の動きが見えてしまうため、なんとなくその眼の動きが怖くなって他人とうまく話せないのかもしれない。光の問題もある。学校内でサングラスをかけるわけにもいかないから、やはり目を細めているしかないのだ。琴乃はぎりぎり学校内ではヘッドホンなしで過ごせているが、ぼくの場合はもはや癖として身についてしまっていて、たとえ室内のそれほど明るくない場所でも、つい目を細めてしまう。
 レッテルの剥がし方、それはこの癖を改善しないことには入門編すらスタートできない。気休めで眼鏡のレンズをUVカットのものにしたり、カラーコンタクトを入れようとしたりもした。結局カラコンは馴染めなかったし、なによりぼくがぼくでなくなってしまうような気がして、こうして茶色い目のままでいる。かといって変身願望がないわけではない。できることなら――
「真っ、聞いてる?」
「えっ、あ……、ごめん。えっと、なんだっけ」
「もーっ、ほら、日向さんの猫がいなくなっちゃったって話だよ」
 後輩の日向葵さんの飼い猫が行方不明になっているという話だった。日向さんの嫌味はまだ続いているだろうに、琴乃はそんな彼女の心配をしている。
「ほら、この雨だからさ……。日向さん、神経質んなっちゃって、余計にピリピリしてるみたい。まだ子猫だって言うから、もし川に落ちたり車に轢かれちゃったりしたら大変だよ」
「そっか、それは大変だね。……でも、琴乃」
「うん、真、わかってる。あたしたちは――」
「手を出さない」
「うん……」
 それはぼくたちがこの中学校時代で誓った掟だった。嫌われ者たちの信条であり、下手に周囲の人たちを刺激しないための知恵でもあった。
 でも琴乃は気にしているみたいだ。部長なのだから部員のトラブルをなんとかしてやりたいという気持ちはわからなくもないが、ぼくたちは日陰を歩いていくしかない。
「日向さん……、琴乃のこと、まだ嫌ってるんでしょ?」
「うん。ときどき嫌味を言われるくらいで、なにか大きな嫌がらせとかはされてないけどね。あたしがこんななりで部長をやってるのが気に入らないみたい」
「そう……」
「嫉妬や僻みと言えばそうなんだろうけど……」
 琴乃はやっぱりやさしい。自分を嫌っている部員の悩みも気にかけてあげられるのだ。周りからあまりよく思われてなくても、部長になるだけの器がある。
「……本当は、助けてあげたいんだけどね」
「うん……」
 ぼくもなんとなく頷いていた。でも、ぼくたち二人に借りを作ってしまうことを日向さんは望まないだろう。ぼくたちにできることといえば、新聞部や生徒会にかけあって捜索願いのビラを出してもらうぐらいが精一杯だ。ぼくたちが依頼人であるということは、隠したまま。嫌われ者は誰かの役に立ったところで迷惑がられるだけなのだ。おとなしく、なるべく目立たず日々を流していかなければならない。ずっと日の当たらない場所を、歩いていくしかない。
 ぼくたちは、手を出さない。そうは言っても、飼い猫が行方不明となると部活にも専念できなくなるのではないか。日向さんの集中力が削がれてしまうと、普段の練習にも影響が出てきてしまうのではないだろうか。
 予鈴が鳴った。ぼくたちはどちらからともなく立ち上がって、教室に戻ることにした。
「じゃ、真、ちゃんと小説書いてねー。もう時間もあんまりないから、悪いけどなるべく早めにお願いね」
「うん、わかった」
 教室への入り際、琴乃はぼくに催促をした。ぼくと琴乃は同じクラスだが、席も離れているため教室内ではあまり口を利かない。ぼくはわかったとは言いつつも、まだ一文字たりとも書いていないことに後ろめたさを感じた。
 夏の公演、琴乃が最後に舞台に上がる日まであとひと月強。ジャンルは現代物で、テーマは「絆」。家族や友達との「繋がり」だ。
 焦燥感がないわけではないのだが、書かなければならないという強迫観念にも似た思いが背後に迫っていた。きっとそれは、友達との約束だからだろう。今日は金曜日。この土日で書けなければ、既存の文学作品にシフトチェンジするだけ。ぼくへの実質的なペナルティはなにもない。今まで通りの生活が続いていくだけだ。ただ、精神的なわだかまりが残り、期待に答えられなかった罪悪感が澱となって心の底にへばりつくだろうが。
 雨は止まない。ぼくは自室の窓からぼんやりと外を眺めていた。ここ新枇市はあまり大きくはないベッドタウンだ。一軒家が多く、ビルやマンションはさほど多くないため、ぼくたち家族の住むマンションの五階からでもある程度街が一望できた。行き交う車、右から左へと抜けていく電車、木々のざわめき、宙を舞う花びらのように傘を広げて歩く人たち、電気がまばらに点いた遠くのビル、ぼくの家、琴乃の家、ほかの誰かの人の家……。
 ぼくの頭に入ってくるのは頻りに降り続ける雨の音ばかりだった。きっと夏の公演用の小説は雨を盛り込んだものになるかもしれない。漠然としたアイデアばかりがぼくの空想世界の中で明滅する。青い色、水溜り、安っぽいビニール傘、子どもの黄色い長靴……。
 ふと、なにかが記憶の底で蠢いた。忘れることのない傷痕が、雨という情景から想起されて疼いたのだ。ぼくがこの街へ転校するきっかけになった記憶。ぼくの生まれた見辺野町みべのちょうという町の半分が、台風の豪雨による土砂崩れで土の下に埋まってしまった災害の記憶だ。けが人や亡くなった人も数人おり、中には喉に木片が刺さって元の声を失ってしまった人や、逃げ遅れて生き埋めになってしまった人も何人かいたらしい。しかし台風ということで、避難していた人が多かったから大惨事には至らなかった。ただ、町が半分すっかり消えてしまったことで大きなニュースになった。
 小さな町だった。人口もさほど多くはない。通っていた見辺野小学校の全校児童は二十人にも満たなかったが、小学校の校舎も埋れてしまったために通っていた児童はみんな散り散りになってしまったと聞く。かくいうぼくの家もなくなってしまったので、一旦はこの新枇市の親戚の家を間借りさせてもらい、支援金の給付もあってなんとかこのマンションに引っ越すことができた。つらい記憶を忘れることは難しいけど、今もこうしてどうにか暮らしている。助かったことに感謝しなければ。
 ぼくは少し離れたところにある公園の揺れる木々を眺めていた。離れているとは言っても、歩いて十数分のところにあるこぢんまりとした公園だ。このマンションに引っ越してきて間もない頃は、放課後になると時々あの公園で琴乃と一緒に遊んだものだった。
「――まこちゃん、あそびいこ」
「うん」
「あのこうえん、みえる? あそこでだんしが、きのぼりたいかい、やるんだって。いちばんうえまでのぼれたひとが、ゆうしょう」
「ふうん、もうはじまってるみたい」
「え、みえないよ」
「みえるよ」
「じゃあ、いまだれがのぼってるかわかる?」
「えーっと……、ごめん、なまえわからないや」
「よおくみてみて。よおく――……」
 揺れる数本の木々のうちの一本に、ぼくの目は吸い寄せられた。枝の上になにかがいるのだ。鳥かなにかかなとぼくは特に気にもせずにぼんやりとその木を眺めていた。
 電線に止まっている鳥たちは雨が降るとどこへ消えてしまうのかぼくは気になっていたが、ああやって木の上で雨宿りしているのかもしれないとなんとなく想像した。でもよくよく見てみると、どうも鳥ではないらしかった。全身が体毛に覆われていることには変わりがないのだが、羽がなく四本の足で必死に枝にしがみついているように見えた。
 猫だった。その木は大きなケヤキの木で、近所の子どもたちがよく木登りをしている木だった。小学生の頃、男子たちがよく木登り大会に使っていた木だった。男子に混じって一緒になって登る女の子も何人かいたが、さすがにぼくは登ったことはなかった。しかし人間の子どもと猫とでは話は別で、おまけにまだ子猫だというのなら、なおさらその大木たるや一度登れば容易には降りられないだろう。
 行かなきゃ、という思いが一瞬沸き上がった。だがしかし、ぼくなんかが助けに行っていいものだろうかと逡巡してしまう。学校で琴乃に提示した掟が反転、自分自身に突きつけられたようだった。ぼくたちは手を出さない。たとえ、誰かが困っていようとも。人助けをすることで迷惑がられるなど本当はおかしいはずなのに、それを是正することもなく、ただ傍観することでその危機を避けているのだ……。
 いや、違う。本当は怖いだけだ。他人から嫌われ、疎まれ、自分が傷つくのが怖いからだ。たとえ迷惑がられたって人のためになることをすれば自ずと評価もついてくるはずなのに、その刹那的な蔑みの視線から逃げているだけだ。
 しかしいずれにせよ、誰かが日向さんの猫を助けなければならない。消防団が助けようと、クラスの人気者が助けようと、ぼくが助けようと結果は同じはずなのに、その結果にあとから付随される「偏見」が、ぼくをきっと苦しめるだろう。しかし、消防団にもクラスの人気者にもあの猫はまだ助けられないだろう。なぜなら、まだ彼らは猫を見つけていないからだ。ぼくにしかできないこと、ぼくの「目」を使ってでしかできないこと――
 気がつくとぼくは部屋着の上にレインコートを着込み、真新しい明るい緑色のレインブーツに足を突っ込んで外に飛び出していた。レインブーツは先日琴乃とおそろいで買ったばかりのものだ。傘は持たずフードを被り、エレベーターを待つのも煩わしく感じ、一息に五階から一階まで階段を駆け降りて行った。外に出ると雨が頬を打った。水溜りも気にせず、ばしゃばしゃと音を立てて一目散に走っていく。赤信号で立ち止まると、ぼくは我に返った。
 なにも考えず外に出てきてしまった。自分で決めた掟を破ってしまうなんて。琴乃に顔向けができないし、なによりほんの少しだけ残っていたプライドが、ぱきんと音を立てて砕けた。しかしながらどこか清々とした、満ち足りた気分が沸き起こってきていた。
 ぼくにしかできないことが、今目の前にある。木の上の猫の存在に気づいているのが世界でぼくひとりだけなら、たとえ厄介者扱いされようとも助け出すのが常識的であるような気もする。日向さんとは面識がないにもかかわらず、なぜぼくはこんなにも使命感に駆られているのだろうか。感謝されたいわけではない。褒めてもらいたいわけでもない。それなのに、赤信号を待つ間にもこれほどまで気が急いてしまうのは一体なぜなのだろう。
 雨は止まない。強さを増して、ぼくの頭上からひっきりなしに降り注いでくる。誰しもが等しく、その雨粒を受けている。傘を差している人だって足元はどうしても濡れてしまうだろうし、車に乗っている人は後日雨で汚れた窓を掃除しなければならないだろう。
 自分で作った掟を自ら破る。周囲に築いてきた自分を守る堅固な壁を、精一杯の勇気を振り絞って壊そうとしていた。たとえ視力が良くたって、瞳の色が薄かったって、琴乃のように聴力が優れていたって、所詮ただの女の子にすぎないのだ。自分から周囲と距離を置いて自己嫌悪と諦観のぬるま湯に浸かっている限り、ぼくは一生このままの性格、このままの立ち位置なのだろう。
 それはなによりも嫌だった。やっぱりなんだかんだ言っても、変わりたいと願っていた。普通の女の子らしく、ぼくと琴乃とで日陰でうずくまっているだけじゃなく、日向に出て太陽の光をさんさんと浴びるように、友達もほしい、恋人もほしい、ぼくたちの目や耳のことを理解してくれる人がほしいと思った。そして願わくは自分たちにしかできないことをしたいという意志もあった。ぼくが今、日向さんの猫を助けようとしているように。
 今唐突に思いついたのではない。ほとんど空っぽの心の底に、唯一その願いだけが鈍い光を湛えてじっと身を潜めていたのだ。
 ぼくは掟を破る。壁を壊す。さらけ出した自分の心が周囲に馴染むまで少しばかり時間がかかるだろうけど、きっと大丈夫。
 そばには、琴乃がいる。
 土砂崩れのトラウマによって暗い目をしてうつむいたままのぼくを、光の下へ出してくれたのは他ならない琴乃だ。どんな嫌なことをされたって、琴乃のおかげで自分を保っていられた。ぼくのほうも琴乃が嫌な目に合っていたときは、必死で助けようとした。繋いだ紐の切れない二人三脚なら、きっとぼくが自分自身と琴乃に課した「他者との余計な関わりはしない」という掟を破ることだって、きっと理解してくれるだろうし、一緒についてきてくれるだろう。ぼくは琴乃のことをなによりも、誰よりも信用しているから、二人ならどんな風雪にも耐えていけるはずだ。
 大きなケヤキの下では雨宿りができるほど、雨は葉に遮られて落ちてはこない。乾いた砂と湿気でしめる土の感触をレインブーツの底に感じながら、ぼくは上を見上げた。まだ小さい体のか弱そうな白猫が、鳴き声も上げずに細い木の枝に爪を立てて必死にしがみついている。その白い子猫のしがみついている枝は、マンションの五階から見たよりもずっと高い場所にあるように感じられた。
 木に登るしかない、か。幸いにも木の幹も乾いている。雨で滑るということはなさそうだった。ぼくはざらりとしながらも湿気を吸ったケヤキの幹に手を当てた。
 部屋着に着替えておいてよかったと思った。ぼくは太い枝の一本に手をかけ、幹に足を当てると体をぐいと上に持ち上げた。この雨では公園に人が来ることもないが、制服のスカートのままでは登りづらいことこの上ないだろう。ぼくはそのままさらに上の枝を掴むと、最初に手をかけた枝の上に両足で立った。木登りのできない人もいると聞いたことがあったが、案外簡単なものだった。スニーカーではなくレインブーツだったが、難なく子猫の真下まで登っていくことができた。
 ぼくは子猫の気持ちになった。というより、木に登るという気持ちがどういうものであるか、理解したという感じだった。無邪気でいればいるほど、高い場所に登るという行為が快感を与えてくれる。高所恐怖症の人は別だが、人は様々な山を登り、高層ビルや電波塔を建て、スペースシャトルで宇宙から地球を見たがるものだ。上へ上へ、高みへ高みへと目指すのが本来人類に宿った目的意識なのかもしれない。
 この子猫も、そんな快感を得たいがためにこうやって無謀にもケヤキに登ったのだろうか。ぼくはなんとなく子猫に自分を投影していた。ちっぽけで、震えながら、木の枝にしがみついている小さな子猫に。でも、ぼくと子猫には違う点がひとつだけあった。子猫は木に登った。ぼくは、木に登らなかった。今現在の話ではなく、普段の話だ。傍観して、諦観して、周囲と関わろうとしてこなかった。木に登ることなく、周りを見渡すことすらなく、ひとり木の洞の中で雨宿りをしていたにすぎない。同じ雨宿りをするのなら、木の洞の中よりも枝によじ登ったほうがいいのかもしれなかった。
「ほら、大丈夫。おいで」
 ぼくは子猫に手を差し伸べた。高いところは怖くなかったが、それでも子猫と同調した恐怖が一瞬みぞおちのあたりをきゅうっとさせる。子猫の体重ではもちろん枝は折れないが、ぼくの体重を加えるとどうなるだろうか。しかし枝が折れて、落ちるか落ちないかが問題ではない。子猫を助けられるか助けられないかが問題だ。枝が折れても、ぼくが子猫の下敷きになって落ちれればいい。さすがにこの高さでは大した怪我もしないだろう。
 ぼくは枝に横座りになって、徐々に子猫に近づいていった。六月の憂いを帯びた緑の中で、ぼくは白猫に手を伸ばす。いよいよ触れるかといったところで、懸念が現実になった。
 ミシミシッという不快音が背後に忍び寄り、バキッという一瞬の音の後、ぼくと子猫は宙に投げ出されていた。地上までは五メートルもない。成猫ならばぎりぎり降りられそうな高さだが、今ぼくの前にいるのは生後数ヶ月の子猫である。咄嗟に腕が伸びた。子猫を抱きかかえるようにして、ぼくは地面の上に落下していった。ただ子猫を助けたいという思いだけを、子猫とともに一心に抱きしめながら。
 あのときも、こんな風に落ちていった。物理的にではなく、精神的に。土砂崩れによって自分の家も、周りの家も、学校もなくなってしまったとき、ぼくの足元はガラガラと崩れ落ちて、暗闇に落ちていった。土石流があっという間に町を飲み込んでしまったように、ぼくの心も簡単に闇に飲まれてしまったのだ。
 その闇の中から救い出してくれたのは他ならぬ琴乃であり、もしかしたらぼくも琴乃のように誰かを助けたいと思っていたのかもしれない。日向さんの猫を助けることは、日向さんの不安要素を取り除くということであり、その結果琴乃を助けることにも繋がるのではないだろうか。演劇部の部長として、琴乃はたとえ自分のことを嫌っている部員であったとしても、彼女の悩みを自分のことのように案じていた。日向さんの不安を解消することは、琴乃の不安を解消するのと同じことなのだ。
 気を失うことはなかった。もしも子猫を助けられなかったら、という恐怖からぼくは目をぎゅっとつぶっていた。雨が葉に当たる、しとしとという音が頭上から降ってくる。乾いた砂の感触が背中にざらりと触れながらも、湿気でしめった土がひやりと冷たい。
 子猫がにゃあと鳴いた。ぼくは目を開けた。ぼくの腕の中で、小さな命がひとつ、安心したように声を上げていた。温かかった。子猫の白い毛はさらりとして、すべすべしていた。ぼくの助けた命。ぼくがこの子猫を危機から救い出したのだ。そう実感した途端、急激に熱い気持ちがこみ上げてきた。生きていることへの肯定感。思えばぼくはずっとそれを求めてきたのかもしれない。自分が生きていていいのだという手放しの安心感を。
 ぼくはしばらく子猫を抱いたまま、木の下で寝転んでいた。ほっとして力が抜けてしまったし、そのまま雨宿りするのもいいかもしれない。
 と、思った矢先に足音が聞こえた。誰かが足早に公園の中に入ってくる。なんとなく横になったままでは視線が気になったので、起き上がることにした。
 足音の主は、琴乃だった。ぼくが横になっているところを見たのだろうか、すごく心配そうな顔をこちらに向けて、小走りにケヤキに向かってくる。ぼくと色違いの赤いレインブーツが水溜りの水を跳ね上げる。ケヤキの葉から落ちた雨粒が、琴乃の傘に当たって弾けた。傘の下の琴乃の頭には、いつも通り赤いヘッドホンがかけられている。
「真っ! 大丈夫? 今倒れてなかった? なんで――」
 言葉の途中で、琴乃はぼくが腕に抱えた子猫に気がついた。ぼくは悪いことをした子どもみたいな後ろめたさから、琴乃の顔をまっすぐに見られなかった。猫を助けることはしないと言ったのは他ならぬぼく自身なのだ。仰々しく掟を並べ立てておいて、自分からその掟を破ったのだ。掟を破った者には当然、お仕置きが待っている。
「その猫……」
 ぼくは琴乃から叱責が飛んでくるのではないかと思い、体を強ばらせた。琴乃もぼくのことをなにより信じてくれている。裏切りにも似た背徳行為が、ぼくと琴乃との関係にひびを入れてしまうのではないか……。そういう恐怖にぼくは怯えていた。しかし、
「日向さんの猫、真が見つけてくれたんだね! よかった、本当に……。ありがとう」
 琴乃はぼくを責めるどころか、当事者である日向さんに代わってお礼を言ってくれていた。ぼくはぽかんと口を開けて、琴乃の顔をまじまじと見てしまった。琴乃はぼくの腕の中で安心しきった子猫を見ていたが、ふいにじっと見つめられていることに気がつくと、照れ隠しに笑った。
「な、なに? 顔になんかついてる? でもびっくりしちゃった。あたしも実は日向さんの猫を捜してたんだけど、補聴器を外すわけにもいかないし、どうしていいやらって感じでさ。それでこの公園をたまたま通りかかったら、誰かが木の下に倒れてて、それが真だったんだもん。ホントに大丈夫? どこか怪我してない?」
 琴乃もぼくの作った愚かな掟を破ってしまったのだ。琴乃は心配性だから、それも仕方がない。だけど琴乃は臆するこなくぼくの心配までしてくれている。掟を破ったことに対するペナルティを恐れることなく。そして自ら掟を破ってしまったぼくに対する責任追及もなく。
「えっ、えっ、どうしたの、真、どっか痛む? あっ、ほら、猫は無事だよ。あっ、眼鏡は? もしかして木から落ちたの? 骨折れてない? 大丈夫?」
 ぼくは気がつくと泣いていた。雨が遮られたケヤキの木の下で、ぽろぽろと涙を零していた。罪悪感もプライドも良心の呵責もかなぐり捨てて、止めどなく溢れる涙に琴乃は右往左往していた。
「……ごめん、ごめんね。助けないとか言っちゃったのに、助けに来ちゃって。ずるいやつだよね、ごめん……」
「そんなこと……。気にしないで。あたしは怒ってないし、真も、下手に他人と関わりを持って偏見を強めることはしないって意味で言ってくれたのはわかってるからさ。こういう場合はしょうがないよ。現に日向さんはすごく困ってたし、この子猫も日向さんにとっては大事な家族の一員だもの。それに掟ったって、個人間で決めた心構えみたいなものでしょ? 真もそんなに自分で自分を縛らなくたっていいよ」
 琴乃はぼくを咎めるというより、むしろ宥めてくれていた。それでも涙は止まらず、しゃくり上げるぼくに、
「真もさ、いろんな人と仲良くしてみたくない? それこそ友達百人なんてのは無理かもしんないけどさ、あたしの耳のことも、真の目のことも、全部なにも気にせずに理解して、認めて、許してくれる人たち。あたしはほしいな。できれば日向さんとも仲良くしたい。でもそれで真との距離が開いちゃうのも嫌。あたしと真は親友で、それ以外の人たちは友達。学校中の人からの偏見をなくすのはできそうにないけど、何人かの友達をつくるぐらいならできそうじゃない?」
 琴乃は琴乃なりに、ぼくに気を遣ってくれていたのだ。それにどうやら、ぼくが琴乃に押しつける「理想」や「信念」が琴乃の心を縛りつけてしまっていたみたいだ。ぼくはなんと愚かなのだろう。なんと思い上がった、傲慢な人間だったのだろう。今になって、自己中心的な自分に嫌気がさした。その嫌な気持ちはますます強さを増して、涙となって流れ落ちた。
「……うっ、うん、そうだね……。ぼくが間違ってたよ。ごめん、ありがとう」
 それはぼくの素直な気持ちだった。琴乃を拘束してしまったことへの謝罪と、それに気づかせてくれたことへの感謝だった。琴乃は言葉の代わりに、ぼくをそっと抱きしめてくれた。琴乃はやさしくぼくの頭を撫でてくれた。琴乃の頬に、ぼくの頬がすり合った。ぼくは琴乃の服を涙で濡らしてしまうこともお構いなしに、ぎゅっと琴乃の体に自分の体を押しつけて泣いた。
「うっ……ううっ……琴乃ぉ……ごめん、ごめんね……」
 琴乃はなにも言わず、ぼくの頭を撫で続けてくれた。ぼくは涙が止まるまで、琴乃のやさしさに浴していた。温かく、柔らかく、甘い香りがした。
「――そういえば、この子猫、名前は?」
「『ニニー』って言ってた」
「かわいい名前だね」
 ぼくはようやく落ち着きを取り戻して、子猫の名前を訊いた。琴乃はぼくが泣き止むまで、ずっとそばにいてくれた。木から落ちたときに外れた眼鏡は近くに落ちていて、琴乃が拾ってくれたが、少しフレームが曲がってしまっていた。気がつけばいつの間にか、雨は上がっていた。
「じゃあ、日向さんの家に送り届けに行こっか。もうすっかり暗くなっちゃったし、日向さんはまだ心配したままだしさ」
「うん、そだね」
 ぼくは少しだけ罪悪感を抱いた。遅くなってしまったのも、ぼくが泣いていたせいである。今は何時だろう。親に怒られてしまわないだろうか。
 ぼくと琴乃は立ち上がって、びしょ濡れの公園をあとにした。葉先に残った雨粒が、街灯の光を受けてキラリと輝いた。
「ニニー! よかった、無事に帰ってきてくれて」
 玄関先で日向さんは歓声を上げた。数日間捜していた猫がようやく我が家に帰ってきたのだ。ぼくと琴乃も自分のことのようにうれしくなったが、それは束の間のことだった。
「まあ、一応お礼は言っとく。アリガトーゴザイマシタ。それじゃ」
 日向さんはつっけんどんにそう言うと、ドアを閉め、がちゃりと音を立てて鍵をかけてしまった。家の中は子猫の帰宅に沸いているようだったが、母親らしき声が「今見つけてくれた人が来てくれてるんじゃないの? 誰が見つけてくれたの?」というようなことを日向さんに訊いているようだった。日向さんは適当にごまかしているようだった。ニニーが自分から帰ってきて、家の前であたしが見つけたとか、そういったことを言っていた。
 ぼくと琴乃はなんとなくやりきれなくなって、なにも言わずに日向さんの家を離れた。ぼくは日向さんとたった今面識を果たしたわけだけど、琴乃と一セットにされておまけのように扱われてしまったのだろう。ぼくと琴乃は、日向さんにとっては存在しないのと同じだった。
「真はさ、どうして猫を助けようと思ったの?」
 唐突に琴乃から質問が飛んできた。もちろん咎めるふうではなく、単純に知りたいからというのが理由のようだ。
「部屋の窓から見えたから。なんとなく、誰も見つけてないのなら、見つけた人が助けるのが筋かなって」
 いや、なんとなくではなかった。子猫を助けに飛び出したときのぼくは、確固たる使命感に突き動かされていたはずだった。それを琴乃に告げると、
「そっか。でもすごいじゃん。真の目が役に立った瞬間だよ! まあ、本人は口ではああいう態度をとってたけど、やっぱり喜んでたしさ。あたしの耳が使えればなー。あたしと猫だけだったら、どんな小さな声も聴き逃さないのに」
 琴乃は心底羨ましそうに語った。日向さんは喜んでいた。開口一番は確かにそうだった。きっと日向さんにも、琴乃に対して譲れないものがあるのかもしれない。
「でもまあ、いろんな雑音があるから無理なんだけどね。もっと器用に使えたらいいのに。真はすごいなあ」
「あんまり褒めないでよ。視力が良くても大していいことないしさ。今回だけだよ、役に立ったのは」
「ごめんごめん。でも、真はこうして日向さんの悩みを解決できた。あたしの耳は封じられてるから、あたしじゃ無理だった。だからさ、なんにせよ自信持ってよ、真」
「うん。琴乃も琴乃でね」
 ぼくたちは暗闇の中、心の奥で小さく灯った光を頼りに歩いていく。自信を持って、自分を卑下せずに、他の人たちと同じように生きる。ぼくたちの特殊性を理解してくれる友達……。日向さんとの和解……。先は真っ暗闇だとしても、ぼくには琴乃がいる。間違えたら、また元の道に戻してくれる大切な頼れる親友がいる。
「じゃあね、真、小説頼んだよー」
「あ、そうだった……。うん、なんとかがんばってみる」
 ぼくは琴乃とマンションの前で別れた。琴乃の家も、ぼくのマンションからはそう離れてはいない。
「ただいまー……」
 時刻は夜の九時を過ぎようとしていた。いつの間にこんなに時間が経ってしまったのだろうか。ぼくは消え入りそうな声で帰宅を告げた。
「真っ、ああよかった。どこ行ってたの、心配したのよ」
「随分遅かったじゃないか。こんな時間までなにしてたんだ」
 ぼくは両親から頭ごなしに叱られてしまった。無理もない。なにも言わずに出てきてしまったのだ。それで夜も遅くなってしまったのでは、心配をかけて当然だった。
「ごめんなさい。あの、猫を捜してて……」
「猫? どういうことだ?」
 ぼくは一部始終を説明した。日向さんの猫が行方不明になり、たまたま公園にいるのを見つけて、助けて日向さんの家まで送り届けに行っていたらこんな時間になってしまったのだと。木から落ちたことを説明するまでもなく、お母さんがぼくのレインコートの背中が汚れていることに気づいた。もしかしたら、涙のあとにも気づいたかもしれない。
「大変だったわね。今度からはちゃんと一言言ってから行きなさい。さ、早くお風呂入っちゃって」
「真、人が困っているのを助けるのはいいことだが、そういう場合は先生や警察や誰か大人の人にに手伝ってもらいなさい。ひとりだと、なにかあったときに大変だ。わかったね?」
「はい、ごめんなさい」
 ぼくの身は自然と縮こまった。なにか偉大なことを成し遂げたような気分だったが、日向さんからはまともに感謝されず、木から落ちたときに外れた眼鏡はフレームが曲がってしまい、おまけに両親からは叱られるなどと、とにかく散々だった。
 しかし、そんなあとづけはどうでもよかった。別に感謝されたいわけでも、褒められたいわけでもなかった。子猫を助けに行くという動機と、助けることができたという成果がなによりも重要だった。そして、琴乃のおかげで自分の過ちに気づけたということも。
 この一夜で、ぼくは一歩前に進むことができた。具体的にはよくわからなかったけど、確かに心の中でなにかが揺れ動き、変わったのだ。小さく灯った光。それは絶望しかない闇の底で見つけ出した、唯一の希望の光だった。
 友達をつくる……。そんなことは無理かもしれない。でも、始める前から諦めたらなにもできやしない。とにかくダメ元でもなんでも、やってみることに価値があるのだ。たくさん友達ができたら、確かにうれしいと思うからこそ働きかけてみるのだ。ぼくと琴乃のクラス内での立ち位置はもう決まってしまっているから、まずはそこから外に出てみよう。別のクラス、学年、部活……。
 そこで日向さんの顔が浮かんだ。切れ長の目と、いつもイライラしているような口元。どうにかしてそのイライラを取り除いて、琴乃と仲良くなってくれないものだろうか。子猫と再会したときに見せた笑顔はなんとも輝いていた。悪い人ではないはずだった。
 ぼくは湯船に浸かって、あれこれと思案を巡らせた。直接的な手段ではうまくいかないだろうということはわかっていた。では、間接的な方法ではどうだろうか?
 ぼくにできることはひとつしかなかった。それに、やらなければならないことでもある。たったそれだけのことでうまくいくとは到底思えなかったが、きっかけにさえなればいいと思った。
 お風呂から上がると、原稿用紙の上にぼくはペンを走らせた。ぼくにできることは、演劇部の夏の公演用に小説を書くことだけだ。琴乃が中学時代の最後に舞台に立つ公演だ。賞が取れようが取れなかろうが、琴乃は構わないと言っていたし、ぼくも思いついたアイデアを実行するために意識しないことにした。
 題材は日向さんの子猫にした。猫を主人公にしよう。愚痴ばかり言っている飼い主に嫌気がさして家出してしまうという設定はどうだろう。それに猫は自分のことをあまり好きではなく、そうした閉ざされた否定的な世界から外に出て、自己肯定のために世の中を見て回るのだ。
 猫耳カチューシャと尻尾をつけた琴乃の姿をぼくは思い浮かべた。思わず笑みが零れてしまう。衣装と舞台装置があれば、誰だって物語の中の住人だ。補聴器をつけていようが、嫌われ者だろうが、部長だろうが部員だろうが関係ない。
 夜は更けていった。十二時を過ぎ、一時を過ぎ、二時を過ぎた。雨雲の中を息を止めてずっと泳いでいるかのような感覚。迫りくる雨の洪水がぼくの脳を圧迫する。下に落ちることも、息継ぎに顔を出すこともできない。救いようのない小説かもしれないが、最後の希望に向かってただひたすら泳いでいった。
「――ね、まこちゃんってよんでもいい?」
「……え?」
 ぼくはあまりに唐突に話しかけられたので、一瞬反応が遅れた。
「あたし、あべことの。ね、まこちゃんのともだちになってもいい?」
 目の前で自分の名前を名乗る小さな少女には、両の耳に見慣れないおかしなものがはめられていた。透明のプラスチックかと思われるものが耳介に沿って渦を巻いている。スポーツ仕様のカナル型イヤホンに似ていなくもないが、先端に少し大き目の器械がぶら下がっていた。
「みみのそれ、なあに?」
「……やっぱりまこちゃんもこれ、きになる?」
 琴乃はどこか後ろめたそうな、恥じるような表情を見せた。
「うん」
「……」
 琴乃はなにも言わなかった。いや、説明できるだけの言葉を持ち合わせていなかったのかもしれない。その耳の持つ機能が、あまりにも特殊すぎて。
「まこちゃんのめ、きれいだね」
 琴乃はぼくの茶色い瞳を覗き込むようにして見ていた。そのときはまだぼくの視力についてはなにもわからなかったのだが、身体測定や、学校から少し離れた公園での木登り大会を教室から見たときなどに、琴乃はすぐにぼくの特殊性に気づいてくれた。琴乃はぼくと自分を重ねるようになり、またぼくもそれに倣っていった。
 だがしかし、ぼくは琴乃の気遣いに対して不躾な質問で返してしまったのだ。琴乃はぼくの目をきれいだと言ってくれた。しかしぼくは、琴乃の補聴器を珍しいものでも見るような目で見てしまったのだ。
 今の今まで忘れていた。偏見を持っているのは、他ならぬこのぼく自身だったのだ。必要以上に他人との関わりを避けようとしていたのも、ぼく自身がぼくたち二人に対して偏見を持っていたからではないか。
「ことちゃんのくろいめも、きれいだね」
 果たしてぼくはそれを現実に言ったのか、それとも単なる空想だったのだろうか。琴乃がなにかを答えていた。ぼくもさらになにかを言った。気がつけば二人は、生まれて初めての友達を得ていた。
 そこで目が覚めた。窓から朝日が差し込んでいる。ぼくは机に突っ伏すように眠ってしまっていた。作品は書き上がっていたが、校正どころか読み返してすらいない。ただ原稿用紙のマス目を埋めただけのような気もした。
 それでも琴乃に渡さなければならない。もう夏の公演まで時間はないし、学校にも行かなければならない。時間は無情にもぼくをベルトコンベアに載せて運んでいく。琴乃と日向さんを仲直りさせるという終着点に向かう道標は、よだれの染みた原稿用紙だけ――
「……げ」
 よだれを垂らしながら寝ていたのだろう。原稿用紙の一番最後のページがよだれで濡れていた。原稿用紙を重ねて書かずによかったと思ったが、恥ずかしい染みの一種であることに違いはない。
「真ー、起きなさい。遅刻するわよーっ」
 幸いにも文字が滲んでいなかったので、結局そのまま持っていくことにした。書き直している時間はもうない。クリアファイルに十数枚の原稿用紙を突っ込み、急いでごはんをかき込んだ。
「行ってきまーす!」
 雨雲はすっかりどこかへ消え去っていて、夏の空が広がっていた。紫陽花の葉の上に取り残されたように、カタツムリが重そうな殻を引きずっていた。アスファルトに立ち上る陽炎、もうどこかで羽化を遂げた蝉の鳴き声。重々しい梅雨は明け、夏の到来をぼくは全身に感じた。
「真、どうしたの、すごい隈だよ。それに、眼鏡は?」
 教室に入ったぼくを出迎えた琴乃は、ぼくの顔を見るなりそう言った。よほどひどい顔をしていたのだろう。ぼくは目をこするとあくびを噛み殺しながら琴乃に原稿用紙を渡した。
「ふぁい、これ……。公演用の小説。遅くなってごめん。眼鏡はもうかけないことにしたんだ」
 フレームの曲がった伊達眼鏡は机の上に置き去りにしてきた。もう周りの視線を気にすることもないだろう。
「わあ、ありがとう。眼鏡はまあいいとして……、これ、一晩で書いたの?」
「うん。このままじゃ、公演に間に合いそうになかったし、それに」
「それに?」
「どうしても、書きたかったから」
 ぼくは寝ぼけ眼のまま自分の席へふらふらと歩いていった。琴乃が微笑んでいるのを、ぼくは目の端で捉えた。席につくと急激な眠気に襲われて、午前中の授業はずっと寝てしまった。昨日の夜とまったく同じポーズで。
 ぼくはいまだに夢見心地だった。自分が誰かの役に立つということについて。感謝されなくても、結果がうまくいかないかもしれなくても、胸の奥がじんわりと温かくなる。自分の有用性を、ぼくはもっともっと証明したいと思った。
 目を開けた。いつぞやのようにぼくは市民文化ホールの一番後ろの席に座って、場内をあてどなく眺めていた。琴乃が演劇部に入ってから三年間、こうして公演の度に琴乃についていっては彼女の輝かしい姿を見ている。ぼくはといえば、なんとなく消去法で入った手芸部にはまったく行かず、家で本を読んだりケータイ小説を書いたりしているだけで、充実感のまるでない三年間だった。空っぽの心を埋めてくれるのは本で読むたくさんの物語と、あるいは琴乃だけ。琴乃は始めから、ぼくのことをなんとかしようとしてくれていたのだろうか。弱音を吐くことはあっても、挫けることのなかった琴乃は、ずっと「偏見のない毎日」を送りたがっていた。
 しかし、ぼくが琴乃に対して抱いてしまっていた偏見ももちろんのこと、その日々の中で完全なる平等などありはしない。前髪を短く切ってしまったときは、フォローされながらも内心笑われているかもしれない。そういうものなのだ、所詮。ぼくたちは偏見なしでは他人を見られない。
 でも、とぼくは思う。偏見がなくなるようにすることは無理だろうけど、他人の持つ「違う部分」、つまりぼくたちの特殊な身体異常を理解してもらうことはできる。理解してもらえれば、友達にもなれる。ぼくたちは自分の特殊性をそれぞれ「個性」として認識し、「性質」として受け入れて、忌み嫌ってはいても自分たちの特殊性とよろしくやってきた。これまでも、そしてこれからも。苦しくもあり、いつ落ちるともしれない綱渡りかもしれない。でもそれは生きる上では仕方のないことで、避けては通れない道なのだ。
 理解されること。それをぼくも琴乃と同じように求めていたはずなのに、どこかで恐れていたのかもしれない。ねじ曲がった道を歩んでは琴乃に正しい道にいつも引き戻される。琴乃はぼくの道標そのものであり、よきパートナーでもある。
 では、ぼくは琴乃にとってのなんなのだろう。強いてなんの助けもしていないように思われたが、ひとつだけ思い当たった。
 受け皿だ。ときどき琴乃が漏らす弱音を、受け止めてあげる存在。挫けず倒れないようにしているのはそもそも琴乃の力だけど、ぼくはそれをそっと支えていたのかもしれないと客観的に思った。
 あと十五分ほどで、最初の学校の演技が始まる。プログラムによれば、ぼくたち南中は一番最後のトリだった。
 座席に深く身を沈めて開演を待っていると、控え室に続く扉から誰かが慌てたように出てきた。駆け足でこちらへと向かってくる。日向さんだった。体調でも悪いのか、真っ青な顔をして会場内を走ってぼくのところへやってきた。
「あ、あんた、安部先輩の友達」
 日向さんはぼくに話しかけた。血相を変えながらも、一瞬思案を巡らせている。
「えっと、確か、梨木なしき先輩、だっけ」
「あ、うん、そうだけど……」
「名前なんてどうでもいい、とにかく! 一緒に来て! 安部先輩が……。ああ、まさかこんなことになるなんて」
「えっ、琴乃がどうかしたの」
 ぼくは嫌な予感がして、背中をひやりと冷たいものが走った。一体琴乃がどうしたというのか。日向さんは混乱してまごついていた。どうやらパニックを起こして、うまく説明できないようだった。
「わかった。行こう」
 ぼくと日向さんは急いで控え室に向かった。すでに開演まで十分を切っている。周りの観客がなんだなんだと、走るぼくたち二人を訝しげに見やった。
「琴乃!」
 控え室に入るやぼくは琴乃の名を呼んだ。返事はない。が、奥から苦しそうな呻き声が聞こえた。
「あ、今救急車呼びました。あと二、三分で到着するそうです」
「わかりました。救急車が到着するまで、全員ここで待機なさい。今主催者の方に伝えてきますから……」
「先生」
 日向さんが演劇部の顧問の先生を呼び止めた。
「ああ、日向さん。それと梨木さんも来ましたね」
 先生の顔も真っ青だった。ぼくは居ても立ってもいられず、二人の脇をすり抜けて控え室の奥へ踏み込んでいった。
 琴乃がいた。額に濡らしたタオルを当てられ、床に寝かされている。すごい汗で、苦しそうな顔、歯を食いしばった口から呻き声が頻りに漏れ出している。ぼくは泣きそうになった。琴乃のそばへと駆け寄り、膝をついて手を握った。
「真……」
 琴乃は目を開けた。苦しそうに、ぼくの名前を呼ぶ。
「どうしたの、なにがあったの」
「う……」
 琴乃はしゃべるのもつらそうだった。
「……あたしのせい。あたしが、バカなことをしたから……」
 日向さんがぼくの背後でぽつりとつぶやいた。今にも泣きそうな顔をしている。
「あたしが、琴乃のiPodにイタズラしたから……。まさか、倒れるなんて思ってもみなくて……」
 日向さんはそこで口を噤んでしまった。そこから先はなんとなく予想がついたが、ぼくは先生から簡潔に事情を聞いた。
 琴乃はいつも演劇の前には音楽を聴いて集中力を高めているという。それを知っていた日向さんが、軽い気持ちで琴乃の音楽プレイヤーにイタズラをした。音量を最大限まで上げてびっくりさせようとしたらしい。ところが琴乃がいつもかけている赤いヘッドホンから流れ出した音量は、琴乃の耳をつんざいて気を失わせた。日向さんはそんなことになるとは、夢にも思わなかったそうだ。
 目を覚ました琴乃は頭痛や目眩を訴えて、今も苦しそうに横になっている。ぼくはそんなことをしてしまった日向さんに対して一瞬怒りが沸き起こったが、すぐに強い自責の念に駆られてしまった。ぼくや琴乃が理解を得るために、ぼくたちの身体異常について周りにもっとしっかり説明しておけば、こんなことにはならなかったかもしれない。しかしそんなことを言ったってどうしようもないのは事実で、漫然と周りの良心に委ねてしまったぼくたちの自業自得かもしれなかった。ただ外見上はもちろん日向さんの責めに帰すべき事件であるが、そういった理由で日向さんを強く咎めることはしたくなかった。
「真……」
 琴乃が再びぼくの名を呼んだ。
「琴乃、しゃべらないで……」
「真、あたしの代わりに、舞台に……」
「えっ」
「日向さん、真を出してあげて。きっと大丈夫。きっと、できるはずだから……」
 ガチャッと唐突に控え室の扉が開き、数人の人が中に駆け込んできた。救急隊員だ。すばやく血圧を測ったり、琴乃の容態をチェックしている。救急隊員のひとりが先生と話をし、琴乃は担架で運ばれていった。先生もついていく。ぼくたちはそのまま待機という形になった。先生から連絡が入るか、演劇コンクールが終わればそのまま解散という流れになるだろう。しかし、琴乃のことが気になって他のクラスの演劇を集中して見られそうにもない。おまけに運ばれる前に琴乃がぼくに言い放った言葉が、あまりにもぼくの心を鷲掴みにして離さなかった。
 琴乃の代わりに、ぼくが演技をやれという。ぼくはそんな不意打ちを食らって、頭の中がぐるぐると回り出した。
「ねえ、私たちの劇はどうなっちゃうの?」
「そりゃあ中止でしょ。主役がいなくちゃ、できないもの」
「ずっとここで待機してるの?」
「こんな状態じゃ、他のクラスも見れそうにないしねぇ」
「じゃあどうする?」
 部員たちが各々不安そうに会話をしている。ぼくは日向さんを見た。日向さんだって、こんな状況になってしまっては不本意だろう。まさに自分のせいで、今までの練習をすべて反故にしてしまうことになるのだ。
 琴乃が言ってくれた言葉。きっと大丈夫。きっとできる……。ぼくは意を決して、椅子から立ち上がった。琴乃から託された思いを繋げるために。
「やろう! ぼくが琴乃の代わりに出る」
「え、でも……」
「演技はやったことないけど、それでもなにもしないで帰るよりかはマシだよ。ね、日向さん」
「まあ、そりゃそうだけど……。でも、ホントに……」
「大丈夫だよ。ぼくたちの出番は最後だし、原作を書いたのもぼく。セリフはある程度頭に入ってる」
 とはいえ徹夜で書いたから、一夜漬けの英単語のようにド忘れする危険性もあった。ぼくは念のため台本を見せてもらうことにした。
「なにが大丈夫なんだ、今まで演劇の『え』の字も知らなかったようなやつが、付け焼刃でどうにかなるわけない」
 台本をパラパラと読む間、日向さんが突っかかってくる。自分の書いた物語を再チェックし終わると、ぼくは日向さんに向き直った。
「日向さんもこの台本読んだ?」
「え、いや……。読んでないですけど」
「琴乃か、あるいは部員の誰かがト書きにしてくれたんだろうけど、小説自体はぼくが書いたんだ」
「それが?」
「琴乃はぼくに大丈夫だって言ってくれた。きっとできるって。だったら、その思いに応えなくちゃいけない」
「それが無理だって言ってんの」
「無理じゃない。ぼくも琴乃も、日向さんに対して怒ってないことは見てわかるでしょ。日向さんは自分を責めてる。でも、琴乃は許してくれた。ね、だから日向さんにも協力してほしいんだ」
 普通は怒って当然だろう。命に関わるほどではないにしても、倒れて気絶するほどのことをされたのだ。琴乃の補聴器は一見して耳が悪い人のためのものでもあるかのように見える。それでも部員全員には、琴乃あるいは先生からの説明によって伝わっているに違いない。詳しい説明ではなかったかもしれないが、日向さんは知っていてやったのだろう。だからこそ罪の意識も感じている。それを感じないよりかはよっぽどマシだった。
「……裏方のあたしなんて、当日の本番だけしか役に立たない。なのにわざわざ嫌いな人の顔や、その嫌いな人の友達が書いた芝居なんて見たくもない。悪いことをしたとは思ってる。許してくれなくたって構わない」
 日向さんは一層暗い顔になってそう言った。
「だから協力は……」
 パァン! という音が控え室に響いた。気がつくとぼくは日向さんの頬を張っていた。初めてだった、こんな気持ちになるなんて。
「それは違う! 本番しか役に立たないわけじゃない! ヘアメイク係でも、普段の練習中にみんなに意見を言える。髪の動きとか表情の違いとか、衣装のイメージがちゃんと合ってるかどうかとか、その係にしか見られないこともいっぱいあるはずだよ。それなのに、そんな割り切り方で自分の立場を狭めないで」
 ぼくの口からは止めどなく言葉が溢れてくる。日向さんに言い返されると思っていたが、うつむいたままぼくの言葉を聞いている。
「みんな今日のこの日のために練習してきたのに、なにもせずこの控え室で待機してろって言うの? そんなのは嫌だ。ぼくの演技はド素人そのものかもしれないけど、他のみんなの努力を無駄にしたくない!」
 言いようのない使命感に、ぼくは再び支配されていた。誰かが溺れているのなら、崖下でも飛び込んで助けたい。そんな感情に似ていた。
「……わかった。協力する」
 日向さんはしぶしぶと言った感じで頷いてくれた。
「ありがとう!」
 ぼくは笑顔になった。久々に、心から笑えたような気がした。演技ではなく、素の感情で。日向さんは眩しいものでも見るかのように目を細めた。もしかしたらぼくにつられて笑顔になりそうになったのを、堪えたのかもしれなかった。
 ぼくの言葉が通じてよかった。理解してくれた、琴乃の思いを。ぼくは日向さんに髪をセットしてもらいながら、うきうきとした気分でいた。たとえ琴乃の代役であっても舞台に立てることがうれしいのか、それとも日向さんの気持ちをぼくに向けさせられたことがうれしいのか。はたまた自分の使命感を信じて、演劇部の不安要素を取り除こうとしていることこそが、喜びになっているのかもしれない。緊張もしてはいるが、それ以上にプラスの感情のほうが強かった。
 心の中が充実感で満たされていく。もうぼくは、日陰を歩くことをやめよう。過去にも支配されない。本物の自分でも、偽物の自分でも、空っぽの自分でもない。今、新しい自分に変わるんだ!
「次は、新枇市立南中学校演劇部、『気まぐれな猫』です」
 いよいよ出番になった。ぼくは幕が左右に開くと、上手からゆっくりと舞台の中央へ歩いていった。全身にスポットライトを浴びる。光のない観客席から、一身に視線を向けられた。猫耳と尻尾をつけた姿を、たくさんの人に見られてしまっている。緊張で心臓がひっくり返りそうになりながらも、ぼくはなぜか恍惚感を覚えた。
 ぼくは今、世界の中心にいる。
「――ぼくは家出をすることにした。もううんざりなんだ。ご主人はいつも誰かの悪口を言っているし、ごはんもあまりおいしくない。ぼくも自分のことが好きじゃないし、変わりたいって思ってた。こんな嫌な場所からはおさらばして、外の世界がどんなものか見に行こう」
 ぼくはその場で足踏みをした。すると下手から背景や木や電柱の舞台セット、他の猫たちが登場した。猫たちは異口同音に愚痴を言い合い、誰かの悪口を言い合い、不平を漏らしていた。
「ああ嫌だ。どこへ行っても嫌なことばかり。どうしてみんな平和に生きられないのだろう。誰かを貶めることで、自分の位が上がるわけでもないのに。……ひとりになろう。静かなところで、ひとりで暮らそう」
 舞台セットと猫たちは上手に消え、下手からは新たな背景が現れた。大きなケヤキの木と、ブランコや鉄棒が描かれている。
「あの木はよさそうだ。あの木をぼくの住処にしよう」
 ぼくは木に登る演技をする。うまくできているかどうかはわからない。なにせ本当に木登りをしたのも、この間が生まれて初めてのことだったのだ。
「猫は木の枝の上で横になって眠ったり、起き上がって遠くのほうを眺めたりして、自由気ままに暮らしていました」
 ナレーションが入る。ぼくはそのとおりに演じた。うまく演じられるかどうかは問題ではない。日向さんに伝わるかどうかだ。
「おーい」
 ふと、呼びかけとともに上手のほうから人がやってくる。飼い主の女の子である。日向さんをモデルにしたが、台本でチェックした限り配役は彼女自身に割り振られてはいない。日向さんは今も、観客席でこの舞台を見ているはずだった。
 しかし、ぼくの目の前に現れたのは日向さん本人だった。ぼくは驚きで目を丸くした。
「あ……、あれは、ぼくのご主人だ。家出したぼくを捜しに来てくれたのか」
「猫は、実は世の中は嫌なことだらけであることを知りました。でも、全部が全部嫌なことでもなかったのです。猫はご主人が迎えに来てくれたことに、純粋な喜びを覚えました」
「結局ぼくは、変われなかった。でも、ご主人がいつも悪口を言っていたのもわかったような気がする。ぼくが理解してあげれば、それでいいんだ――」
 ぼくは立ち上がって、日向さんのほうへ駆け寄ろうとした。そして、すぐに立ち止まる。
「猫はご主人の元へ帰ろうとしました。しかし、どうしたことでしょう。簡単に木の上には登れたのに、今度は降りることができなくなってしまいました。足が竦んで、動けなくなってしまったのです」
 ぼくは震える演技をし、その場にぺたんと座り込んだ。その様子を、日向さんが真剣な表情で見ている。
 これは演劇ではない。もはや現実そのものだ。動けなくなっているぼくを、日向さんが助ける。日向さんがぼくのことを、そして本来この場にいるはずの琴乃のことを理解して、助け合える契機となる。事件が起きたのは予想外だったけど、それが逆に日向さんの過ちを正す結果となった。だからこそ、日向さんはここにいるのだ。ヘアメイク係であるはずの日向さんが。
「大丈夫? どこ行ってたの。さあ、一緒に帰ろう、『ニニー』」
 日向さんはぼくと同じように木を登る真似をすると、ぼくの前に膝をついた。そしてぼくを、思い切り抱きしめた。今、ぼくのことを「ニニー」と呼んだか。
「ごめんなさい、悪口や愚痴ばかり言って。本当は、あなたたちのことが羨ましかった。限られた、閉塞された世界の中でもちゃんと自分を持っていて、負けじとがんばってる姿が、羨ましかった。でもあたしは、そうしないとがんばれなかったんです。誰かを否定することでしか、自分を肯定できなかったんです。でも、あなたのおかげでようやく気づきました。そんなことをしても、虚しさしか残らないって。逆にイライラが募るだけだって。気づかせてくれて、ありがとう。もう、誰かの悪口は言いません。約束します」
 セリフに沿っているようでいて、ぼくの書いた小説とはところどころ違っていた。後輩然とした丁寧語にもなっている。台本では同じはずだったのに、日向さんがアドリブで変えたのだ。ぼくと琴乃に向けて意味が通じるように。
 そのセリフはなによりも、ぼくではなく琴乃に対して言ってほしかった言葉だ。でも、ぼくが日向さんの猫を助けたときの態度に関しての謝罪も含まれているのだろう。また、ぼくのことを日向さんの飼い猫の名前である「ニニー」と呼んでくれた。もちろんぼくは小説内で猫の名前を明かしてはいない。日向さんの心に、ちゃんとこの物語が届いたのだ。琴乃と仲直りしてほしいという思いが。
 ぼくたちの学校の演技は終わった。琴乃の最後の舞台だったのに、とぼくは少しだけ残念に思った。
 コンクールの結果が発表された。ぼくたちのクラスは無残にもどの賞にも入らなかった。一晩で書いた物語と、まったく演技の練習などしていない素人二人が舞台に上がったのだ。それも無理のないことだったが、晴れやかな気持ちだった。
 そのあと、ぼくたち二人は急いで病院に向かった。賞の発表の前に病院にいる先生から連絡があり、命に別状はないから安心してほしいとのことだった。見舞いに行きたいとぼくが告げると、快諾してくれた。他の部員たちはやっぱりまだ琴乃に対しては一歩引いているので、ぼくと日向さんの二人だけで行くことにしたのだ。
「琴乃、大丈夫?」
 ぼくは病室に入るや琴乃に声をかけた。呼吸器をつけられ、点滴が入れられている。先生と琴乃の母親が一緒にいたが、気を遣って席を外してくれた。琴乃はベッドのテーブルに置かれていたホワイトボードを取ると、そこに水性ペンで文字を書いた。
『うん、大丈夫』
 琴乃はぼくのあとに続いて病室に入ってきた日向さんを見ると、驚いた顔をした。今書いた文字の下に続ける。
『あれ、日向さん?』
「琴乃、耳聞こえないの?」
 ぼくは悲しくなった。もしこのまま琴乃が一生耳が聞こえなくなってしまったら……。が、ホワイトボードに書かれた文を見てそんな気持ちは簡単に払拭された。
『うん、今はね。完全に聞こえなくなったわけじゃなくて、一時的なもの。しばらくすると、元に戻るってさ』
「そっかー、よかった。あっ、そうだ、日向さん」
 居心地悪そうにぼくの陰に隠れている日向さんを振り向いて、ぼくは言った。
「ほら、仲直り」
 ぼくは日向さんの後ろ手に回って背中をぐいと押した。ベッドに日向さんの足がひっかかり、そのまま前のめりにつんのめった。ベッドに体を押しつける格好になり、布団越しに琴乃の脚に額をつけていた。
「あははっ、ごめんごめん」
 ぼくは笑ってしまった。日向さんは起き上がり、ぼくのほうを見た。睨むのではなく、不安そうに。
「ほら」
 ぼくは日向さんを後押しした。応援の気持ちも込めて。日向さんは諦めたように、自分の正直な気持ちを語った。
「……あの、安部先輩、今までごめんなさい。本当は、安部先輩のことが羨ましかったんです。そんな身体障害を抱えていながら、部長になって、演技をこなしているのが、すごく。でもそれをどうしても認めることができなくて、自分を肯定するために悪口言っちゃってました。許してもらえないかもしれませんが、謝ります。ごめんなさい」
 琴乃は声を上げて笑った。ホワイトボードの文字を消し、新たに短く文字を書いた。
『いいよ、許す!』
 飛び切りの笑顔が、三人の間に弾けた。それぞれが、本当の自分を見つけられた喜びを感じていた。もう、自分を偽る必要などない。ぼくはぼくらしく、琴乃は琴乃らしく、日向さんは日向さんらしく。傷つけられることを恐れることもない。他人を避ければ避けるほど、他人から避けられてしまうのだ。友達をつくる第一歩は、まず相手を理解すること。そうすれば、自然と相手もこちらを理解してくれる。たとえそこにどんな障害があったとしても。
 数日後に琴乃は退院した。ぼくと琴乃は、今も相変わらず一緒にいる。ただ、そこに日向さんが加わった。休みの日は一緒に遊ぶことも多い。
 琴乃は日向さんの影響もあってか、部員全員とのわだかまりも解消できたようだった。これで心置きなく卒業できるという。さらに、次期部長は日向さんに決まったようだ。琴乃の推薦だったし、異論は上がらなかったという。ぼくのほうはというと、進路もなんとか決まり、受験勉強に明け暮れていた。琴乃と同じ、地元の新枇高校に行くのだ。
 学校のクラスでも少しずつ打ち解けてきた。琴乃のおかげで、ぼくは変われた。新しい自分になれた。それはなによりもうれしいことだったし、楽しくもあり、世界がちょっぴり輝いて見えることだった。
「おーい、真ー。次の授業遅れるよー」
「待って、今行くー」
 移動教室のときでも、声をかけてくれるクラスメイトがいる。その中にはもちろん琴乃だっている。
 もう二人だけじゃない。世界はどんどん拡がりを持って膨らんでいく。ずっとずっと押し込められてきた気持ちが溢れんばかりに放出されていく。
 マイナスの偏見はもう捨てよう。真心と理解を持って、相手に接しよう。ぼくたちの世界のルールブックには、もはや否定的なことは書かれない。
 内側に籠れば籠るほど、人は沈んでいくのだ。それは嫌な気持ちをたくさん産み出すし、周りに迷惑をかけてしまうこともある。
 琴乃、ありがとう。そして、日向さんも。
 ぼくは心の中で感謝すると、窓から差し込む眩しい光に目を細めながら、みんなの呼ぶほうへ廊下を駆け出した。
 
 

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2011.06.29


テーマソング:the pillows「Ninny」




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