水溜りのホップロック


   08

 つまみあげられたサプリメント。足りない栄養素を補ってくれる体の潤滑油。わたしはエンの説明を鵜呑みにして、それを享受していた。思い込み、忘却、一方的な幻想の信頼。
「確かにおれはスイリを騙していたことになる。でも、スイリだって自らすすんでやってたことだ。おれはスイリを騙したことになるが、スイリはおれに騙されたことにはならない。スイリは忘れてしまってるかもしれないが、おれたちは――」
 そうだ。
「実際にここで生活してた。学校からも、親からも、社会からも見離されたと思い込んで。でも本当はおれたちの方から逃げ出して――」
 そうだ、そうだ。
「おれがスイリに勧めたんじゃない。スイリは始めから――」
 そうだ、そうだ、そうだ――。
「おれとスイリがやってるのは種類が違って、スイリにだけ見えるものがある。スイリはそのつもりがなくても、おれがスイリに栄養サプリと偽って与えていたんだ。その意味では、おれはスイリを騙していたことになる。……悪かった、ごめん」
「いいよ、わたしこそごめん。すっかり忘れてた。でも、思い出した」
「そうか……」
 でも、わたしは過去の行為を思い出しただけで、エンを許してはいなかった。わたしはもう、とうにやめようとしたのだ。お金もなかったし、体のあちこちにガタが来て、すっぱりやめようと思っていた。簡単に、やめられると思っていた。
 麻薬をやるのはもう、やめようと思っていたのだ。
 わたしは立ち上がり、エンの腕をぐいと掴むと、力を振り絞って柵にエンの体を押しつけた。柵はそんなに高くない。エンの肩ぐらいまでの高さだ。もともと古びたデパートだ。背の高い立派なフェンスなんかは、用意されてはいない。
「それでも、エンはわたしを裏切ったことには変わりない。わたしはエンを信じていたのに。同じ立場で、同じ境遇で、同じ世界に生きていると思っていたのに。……エンはわたしを、ペットにしていただけだったんだ」
「それは、違う」
「ウソ! わたしは食べ物も飲み物も一人では取りに行けないから、取りにいけるエンを頼って、ここで二人でなんとかやっていこうと思ってた。でもエンはわたしがいなくても生きていける。わたしがいなくても、水に沈んだ街を平気で歩けるんだから!」
「それは、スイリだって……」
 がしゃん!
 わたしはエンを柵に叩きつけた。叩きつけたけれど、大した力はかからなかった。
「……」
 言葉が出なかった。涙も出なかった。悲しいのか、憎いのか、まるで感情の説明がつかない。
 がしゃん!
 がしゃん!
 わたしは何度もエンを柵に叩きつけた。エンは黙ってわたしの攻撃を受け続けている。エンはやっぱりどこか後ろめたそうな、罪悪感を抱いているような、そんな微妙な表情をしていた。
 ばきん!
 何かが壊れるような音がした。エンの体と、エンの体を支えていた柵が傾く。
「すまなかった、スイリ。確かにおれはお前をペットのように扱っていたのかもしれない。かわいくて、見捨てられなくて、結局スイリの心を殺してしまったのかもしれない。それでも、おれはお前が好きだったんだ」
 世界がスローモーションのようにゆっくりと動く。雲も、水面も、虚空へと投げ出されていくエンの体も。
「それと最期に。おれの名前はエンじゃない。マドカだ。漢字は同じだけど、読みが違うんだ。じゃあな、翠璃すいり。元気で」
 ばっしゃーん!
 エンが水に落ちると、巨大な水しぶきがあがり、世界のスローモーションが終わって、今度はミュートがかかったかのように、静かで、空虚で、世界にわたしだけが存在しているかのように、水底の人影もやたらと希薄で、空を駆ける鳥や飛行機もなく、セミも鳴かない夏の午後、エンはいつまで経っても水面に浮かんではこなかった。
 エンは、マドカは、円は……、いつまでも浮かんではこなかった。
 
 
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