楓のウィール


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 日曜日、いよいよ待ちに待った紅葉狩りの日である。駅に着くとすでに瑠穂先輩が待っていて、さっさと自分の自転車を輪行袋に入れていた。
「おはようございます!」
「おはよう。自転車入れたら、熊谷までの切符買うなりチャージするなりしてきてね。あ、秩父鉄道はスイカ使えないから多めに入れちゃダメよ」
「はーい」
 わたしは自転車を折りたたむと、切符売り場へ向かった。スイカは一応持ってはいるのだが、なんとなく面倒でつい切符を買ってしまう。思えば、部活で、もっと言えば友達や先輩とこうして旅行めいた形で電車に乗るのは初めてだった。どうしてもわくわくして、顔がにやけてしまう。楓おばあちゃんを亡くしたばかりの頃の落ち込んだ暗い気持ちが嘘みたいに思えた。
 切符を買って戻ると、入れ違いにいっちょんが来ていた。すでに輪行袋に自転車を入れてしまっている。
「あれ、いっちょん、切符は?」
「スイカに入ってるから、いい」
「おーさすが、用意周到だね」
「それじゃあ、行きましょうか」
 わたしたち三人は改札を抜け、ホームに降りて一番端まで歩く。なんとなく、こんな大きなカバンを持っていては他人を避けたくなるというものだ。電車が滑りこんでくる。ドアが開き、降りる人を待ち、大荷物を抱えた女子高生三人はJR高崎線最後尾のもっとも後ろに乗り込んだ。
「楽しみですねぇ」
「そうね。私は昔一度行ったことがあるけど、小さいときだったからよく憶えていないのよね」
「……埼玉じゃ一番紅葉がきれいなとこかも。有名だし」
「へえ、そうなんだ! ますます楽しみだなー」
 こうして素直に楽しんでいる自分に対して、わたしはどこか客観的でもあり、どこかのめり込んでもいた。いつまでもこの時間が続けばいいのにと思わずにはいられない。ずっとこうして電車に乗ったまま、いろんな雑談ができればいいのに。
 熊谷駅でわたしたちは秩父鉄道に乗り換える。瑠穂先輩が切符を三人分買い、わたしといっちょんは先輩にお金を払い、電車に乗り込む。再びの大荷物である。
 瑠穂先輩のクロスバイクのほうがわたしの折りたたみ自転車より五キロほど軽いのだが、それでも十キロはあるので、JRのホームから上がるときも、秩父鉄道のホームに降りるときもエレベーターを使ってしまった。つまりわたしのARUNは十五キロであり、いっちょんのルイガノの十二キロよりも重いのだ。ましてやロードバイクやピストバイクともなるともっと軽くなる。心の底でスポーツバイクが無意識にほしくなるのも無理はないのかもしれない。
「エレベーターあってよかったですね」
「ほんとね。ほんの数年前に設置されたばかりなの。私が昔来たときはまだなかったみたいね。もうほんとに忘れちゃったなぁ……」
 なんとなく、瑠穂先輩も感慨に浸っているのだろうか。
「……私は幼い頃は親の都合であちこち移り住んでいたのだけど、高校に入る少し前に結局あそこへ戻ってきちゃった。生まれてしばらくは同じところに住んでいたから、やっぱり心のどこかが今も憶えているんでしょうね。でもいろんな場所へ行って、いろんな景色を見てきたけど、全部はちゃんと思い出せない」
「瑠穂先輩……」
「だからね、いつか時間とお金ができたらもう一度見てみたいんだ。心のどこかが憶えているなら、たとえ思い出せなくても懐かしさを感じることができるかもしれないじゃない? 両親との思い出がどんどん薄くなっていくのはやっぱり寂しいもの。ふふ、そのときはあなたたち二人も連れていってみようかしら」
「……あの、先輩のご両親って」
 わたしは瑠穂先輩の言葉の影に気がついて、本当は訊いてはならないことなのかもしれなかったが、訊いてみることにした。好奇心ではないし、瑠穂先輩の心を軽くしようとしたわけでもない。瑠穂先輩がなんとなくそんなことを漏らしたように、わたしもただなんとなく訊いてみただけなのだ。
「今はいない、とだけ言っておくわ。まあ、まだ存命だけど、わざわざ蒸し返して話すのもね……」
「あ、そうですか……。すみません」
 わたしはそれ以上訊くのは失礼だと思い、突っ込むのはやめておいた。話したくない人から無理やり話を訊き出すのはやっぱりよくないし、瑠穂先輩もわざわざ重いものを押しつける気もないだろうから。
「いいのよ。なんとなく、思い出しちゃってね……。要するに離婚して……、私は祖父母と暮らしてる。なーんて……、もう何年か経つのにね、まだ心の整理がついてないのかぁ……」
 駅のホームから見上げる空は爽やかな秋空で、いわし雲がぽぽぽっと遠くまで散りばめられている。風が吹き抜けて輪行袋ががさと音を立てたとき、ちょうど電車が到着した。
「まあまあ、ほら気にしないで。ごめんね、湿っぽくなっちゃって。笑顔笑顔。せっかくの紅葉狩りでしょ。ほらほら」
 瑠穂先輩がわたしたちの背中を後押ししながら電車に乗り込んだ。
「あ、ほら見て、扇風機がなくなってる! 昔の秩父鉄道は扇風機だったのにね。並木さんは知ってた?」
「はい。でも、電車のことにはあまり興味ないので……」
「ああ、そうなの」
「はい。でも、一度蒸気機関車見にきたこともあります」
「いいわよね。でも、やっぱり煙が気にならない?」
「それを言うなら八高線だって煙が……」
「まあ、そうよね」
 自分の感傷で空気を重くしてしまった瑠穂先輩が自分でそれを軽くしようといっちょんと鉄道話を繰り広げているのはなんとなく見ていて面白かった。
「今日はSL、ちょうどいい時間には見られないみたいですね」
「ええっ、そうなの? よく知ってるわね」
「たはは……、昨日眠れなくって、なんとなく気になったので調べてみちゃったんです」
「そっかー、残念ねー」
「まあいいじゃないですか。SLを見に来たわけじゃないんですから」
「まあ、そうね……。紅葉狩りに来たんだものね」
「瑠穂先輩! それ、『紅葉狩り』っていう言葉。なんかわたしが狩られちゃうみたいでぞっとしないです」
「あはは、そうね。でも、なんで紅葉狩りって言うんだろうね」
 確かに。あまり気にしてはいなかった言葉だ。辞書には紅葉狩りとしての用法、つまり「鑑賞する」という意味が載ってはいてもその語源ははっきりと記されておらず、つまり諸説あるようだ。
「んー、これは帰ったらよく調べてみる必要がありそうですね」
「伊呂波さんは、調べ物が得意そうね」
「や、得意というかなんというか……、気になったものは片っ端から調べてみちゃう性分なんですよ。パソコンとか使ってると、ウィキペディアでひたすら関連項目を辿って行っちゃったり」
「それ、すごいわかる」
「おお、いっちょん! わかる? わかるよね! 気がつくと何時間も経っちゃってるんだよねー」
 人の好奇心というものはすごいもので、一度気になりだすと調べて知るまで気になって気になって仕方がなくなるものなのだ。もちろん人によるのだろうけど、わたしはそういった森羅万象の事柄への好奇心が人一倍強いのかもしれない。
「瑠穂先輩、あとどれくらいかかるんですかねー」
「えーっと、今ひろせ野鳥の森駅を出たから、あと一時間半ぐらいかしらね」
「随分かかるんですね」
「そういうのは調べなかったの?」
「あ、そうですね。もっといろいろ調べておけばよかった」
 好奇心にはムラがあって、やはりいくらあらゆることを調べようと思っても、あるいは気になって調べたとしても、興味の有無で情報の取捨選択がなされているのだろう。いろんなことを知りたいと思っても情報量と時間には限りがあって、さらにはすべてを憶えるにも限界がある。ありとあらゆることを記憶しておきたいと思っても、瑠穂先輩のように思い出すら薄らいでいってしまうものなのだ。
 それは抗えない人の能力の限界値であり、なおかつものを忘れられないというのも難儀なことである。わたしは車窓の風景を眺めながら、そんなことを思っていた。
 
 
  三峰口駅で自転車を輪行袋から出し、わたしたち三人は自転車に跨る。
「うわー、山がこんなに近い! とは言っても、いつも見てるような風景にちょっと近づいただけなんですね」
「ふふ、そうね。それじゃあ、出発しましょうか」
「はい!」
 軽快に漕ぎ出した自転車は風を切って走り出す。瑠穂先輩はクロスバイクなので当然わたしといっちょんよりも速いが、スピードをわたしたちに合わせて走ってくれた。こういうところが、瑠穂先輩が自転車部を競技ではなく愛好へとシフトさせる所以となるところなのかもしれない。
 空気はきりりと肌寒いものの、真南に近づく太陽の陽射しがじりじりと体を熱していく。自転車に乗って運動するということは思いの外体力を使い、汗をかく乗り物なのだ。ダイエットをしている人や体力をつけようとする人にはとてもいいスポーツである。わたしはそのどちらにも属さず、ただ単にサイクリングを楽しみたいだけだが、もちろんそれもいいだろうと自己肯定する。
 左手眼下に中津川を眺めながら、ひたすら道路を走っていく。とてもきれいな景色で、思わず止まってひたすら眺めていたいが、目的地はここではないのでひたすら先輩のあとについていく。
「あと少しで道の駅があるから、そこで休憩にしましょうか」
 瑠穂先輩がわたしたちを見かねてか休憩の案を出した。確かに慣れない活動に少し戸惑い気味ではあるが、こんなに早く休憩にしていいものだろうか。 「いえッ、あのッ、だいじょぶ、です」
 とか言いつつも、実は必死で瑠穂先輩のスピードに合わせようとついていっているから徐々に足が悲鳴を上げてきていた。まだまだ先は長いというのに、なんだか情けなくなってきた。
「そうは言ってもつらそうよ? こまめな休憩も最初のうちは必要だから、休憩にしましょう。あ、ほら、見えてきた」
 仕方なく瑠穂先輩の言う通り、道の駅大滝温泉で少しだけ休憩することにした。どうやらここではその名の通り温泉に入れるようで、帰りに入って帰ろうと満場一致で決定した。
 彩甲斐街道は基本的に川沿いの街道のためか、急な坂はない。が、カーブが多かったりなだらかな坂が続いたりするので、思ったよりきつくなってきた。普通の折りたたみ自転車とスポーツバイクとの差をやはり感じてしまう。というのも、瑠穂先輩が割かしすいすいと楽そうに走っているからだ。休憩後は少しだけペースを落としてくれたのだが、隣のいっちょんもわたしと同じように息が上がっている。もちろん経験の違いがあるからなのだろうが、そんな瑠穂先輩の様子を見れば見るほど、ますますスポーツバイクが欲しくなってきてしまうのだった。
「うわあ、もうこの辺り紅葉してますねぇ」
「そうね、とてもきれい」
 ちらほらと紅葉した木々を見ながらのサイクリングは格別なものだと、わたしは感慨深ささえ覚える。体を突き抜けていく空気と風。こんなに気持ちがいいものだとは。
「紅葉にはそもそも三種類あってね。赤く染まる紅葉と、黄色く染まる黄葉、それと茶色っぽく染まる褐葉ね。ここは三種類全部あるから、というか大体あると思うけど、色とりどりでほんときれいね」
 瑠穂先輩が薀蓄を傾けている。確かに鮮やかな赤、黄、茶の三色が目に楽しい。
 まだまだ道は続いているのだが、適当なところでお昼にした。もうとっくに正午を過ぎていたし、わたしたち二人の体力も判断してのことだろう。部長になるというのは、単純にリーダーシップだけではなれないのだなぁと思った。部員のことをしっかり見ていないと務まらないだろう。わたしは瑠穂先輩のことを改めて好ましく思うと同時に、やっぱり自分が情けなくなった。
「仮にも運動部員になったんだから、もっと体力つけないとだめですかねぇ。あー、もっと先に行ければ、山の上からきれいに紅葉した斜面の景色が見られるんですよね?」
「ええ、確かそうだったと思うわ」
「残念だー」
「ふふ、でも初めての長距離ツーリングにしては、二人ともなかなかだったと思うわよ。そうね、もしスポーツバイクを買うことがあったらまた一緒に来ましょうか。その頃にはきっと三国峠まで行けるかもしれないわね」
「はい、いつか買いたいですねぇ」
「さすがに部費で自転車は買えないからそれぞれってことになっちゃうけど、やっぱり自分で買うと愛着も持てるものよ」
「そうですよね。なんか、今日の瑠穂先輩見てたらすごく欲しくなって着ちゃいました」
「あはは、ほんと? まあ、お財布と相談して……。もし買うときにわからないことあったらなんでも訊いてね」
「はい」
 お弁当を食べ終えると、帰ることにした。なんだかこの景色に名残惜しささえ覚えてしまう。また来よう。そして、ほかのいろんな場所にも行ってみよう。楓おばあちゃんが「自転車」という趣味を、わたし自身の力で伸ばしていくのだ。
 帰りの道もまたつらかった。先ほどの休憩時にストレッチしたとは言っても、もう太ももがパンパンである。これは明日筋肉痛になるかもしれないなと思いながら、満身創痍で二十インチのタイヤを回し、ひたすら三峰口駅を目指す。
 もちろん、帰りに温泉に入ることも忘れずに。
 
 

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