楓のウィール


     3


 紅葉狩りから帰ってきて最初の活動日。つまり週初めの月曜日だ。昨日家に着いたあと、念入りにストレッチをしたのだがやはり案の定筋肉痛になった。ジョギングとか、筋トレとかやろうかなぁとも思う。でも同じクラスの人からしたら、必死でダイエットしてるみたいに見られちゃうかも……。軽く、そうだ、軽くやればいいか。
 なんか妥協しているみたいでそれも嫌だった。そうだ、瑠穂先輩や、いっちょんや、他の部員の人たちはどうしてるんだろう。普段部活でやるのは柔軟ぐらいで、まともな体力づくりのメニューはなく、個人個人が勝手にやっているのだろう。どういうトレーニングをしているのか、ちゃんと訊いておこう。
「こんにちはー」
 本当は今日の活動はお休みなのだが、トレーニング方法を訊くためにも部室に寄ってみた。いっちょんも一緒である。まあそれ以前にいつも雑談する場になってしまっているのは事実なのだが。
「……」
「あれ」
 自転車部の部室にはすでに瑠穂先輩が来ていた。にもかかわらず、挨拶の返事はない。いつも柔和な笑みを湛えている彼女の表情は、今日はどこか強ばっている気がした。いや、青ざめていると言ってもいいかもしれない。わたしは気になって訊いてみることにした。
「どうかしたんですか? あっ、さては先輩も筋肉痛ですか? いやー、参っちゃいますよね、これ」
「いやーそれがねぇ、どうも自転車盗まれちゃったみたいで……」
「ええっ、一大事じゃないですか!」
「そうなのよねぇ」
 筋肉痛なんてどうでもいい話は一瞬で頭から吹っ飛んだ。昨日瑠穂先輩が軽快に乗りこなしていたESCAPE・RX3が盗まれたというのだ。トレーニング方法とかも訊いている場合じゃない。
「鍵はかけてなかったんですか」
「かけてたんだけど、外されちゃったみたい。やっぱりダイヤル式じゃなくて、頑丈なワイヤー式じゃないとダメかしら。今度部費を少し上げてもらうように交渉しようかな」
 瑠穂先輩は見るからに困っていたが、自分のことだけでなく部全体としての対策を考えている。紅葉狩りから帰ってきたばかりだというのにこんな問題が発生するとは……。部活動の方針変更もそうだが、先が思いやられるなぁとわたしは不安になった。
「ワイヤーでも切られるときは切られますよ」
 少し呆れたようにわたしの斜め後ろからいっちょんが突っ込む。確かにそうだ。どんなに頑丈な鍵をかけたところで、盗まれるときは盗まれてしまう。問題はその犯人だった。
「わたしがここでお昼ごはん食べたときはちゃんとあったから、盗むとしたらそのあとよね。みんな授業があるんだから、やっぱり部外者かしら」
「でも授業をサボれば、うちの学校の生徒でも犯行は可能です」
「そうねぇ」
「もう一度校内をよく調べてみましょう。もしかしたらどこかにあるかも……」
「ごめんなさいね、昨日の今日で……」
「先輩が謝ることじゃないですよ。犯人に目一杯謝らせましょう」
 部室でああだこうだと話していてもしかたがない。わたしたちはとにかく瑠穂先輩の自転車を探しまわってみることにした。
 とにかくまずは外に出ようとドアを開けようとした瞬間、自動的にドアが開いた。
「お、誰だあんた。新入部員?」
 ちょうど部室に入ってきた背の高い女性とかち合ってしまった。
「あら、安以子あいこじゃない。珍しい」
「あんだよ、一応アタシだって部員の一人だぞ。お、並木もいるじゃねえか。なに、今から外で活動? やっぱりチャリは眺めてるだけじゃ意味ねえもんな。乗って走らせて、競いあってこそ、だろ」 
 瑠穂先輩以外の部員はみんな幽霊部員になってしまっていて、どうやらこの目の前の安以子と呼ばれた人もそのうちの一人らしかった。なんだか男勝りな口調で、少し怖い感じがする。
「違うのよ、私の自転車がなくなっちゃったから、みんなで探しに行くのよ」
 安以子先輩は一瞬固まった。
「――は? ゴメン、もっかい言ってくれる?」
「だから、私の自転車が――」
「はーっ。それならあの男ども、そうだわ」
「え?」
「うちの幽霊部員ども。遠目でよくわからんかったけど、あいつらの転がしてたチャリ、瑠穂のだったんだな。そうとわかりゃ急いで追っかけるぞ! やつらお前のチャリどうかする気だ!」
 わたしたちは身を翻した安以子先輩のあとを追って部室を飛び出た。裏の自転車置き場へ数秒で回ると、急いで鍵を外して自転車に跨る。FELTのロードバイク、F85の二〇一一年モデルに乗った安以子先輩は、あっという間に視界から消えた。グロスチャコールの木炭色のフレームが白いタイヤのラインに乗って、しっかりとした目的を持って走っていく。わたしといっちょんの自転車では到底追いつけないが、必死に見失わないようについていった。
 
 
 安以子先輩は自転車屋の前にいた。わたしたちの自転車部がよくお世話になっているという、学校からほど近い距離にあるスポーツサイクル専門店だ。その店の脇で、安以子先輩が二人の男子生徒に突っかかっている。その二人の後ろに瑠穂先輩の赤い自転車があった。
「やっぱりてめえらか、こんの泥棒が! おい錦木にしきぎ、さっさとそのチャリ返しな!」
「泥棒だなんて人聞きが悪いなあ、瀬田目せためさん。ちょっと落ち着こうよ、ね?」
 話の内容から察するに、安以子先輩は瀬田目という苗字らしい。そして二人組のうち安以子先輩に突っかかられているのが錦木という名前らしかった。
「ふん、どうせ瑠穂のチャリを売っ払おうって魂胆だろうが!」
「いや、そんな、まさか。俺たちはただ、そう、修理をしに来ただけなんだよ」
「持ち主の許可も取らずにか。瑠穂が盗まれたって騒いでたぜ」
 錦木という男子は一瞬押し黙った。が、眼の奥に鈍い光を宿して、語気を荒げ始めた。
「……知らねえよ。あいつはもうこんなクロス要らねえんだろ? だったら俺たちが有効な使い方をしてやったほうがいいってもんだ。なあ、伊吹いぶき?」
「え……、あ、うん……」
 伊吹と呼ばれたもう一人の男子生徒は俯きがちにそう答えた。この二人はいわゆる不良として通っているようだが、伊吹という男子のほうにはまだ良心のかけらが残っているのかもしれない。わたしはなんとなくそう感じた。
「それに俺はもうチャリ部でもないし、チャリに興味もない。自転車愛好部だかなんだか知らないが、こんなどうでもいい乗り物はさっさと処分して――」
 パン! と安以子先輩が錦木という男子の頬を張った。二人はタメ口で話しているから、きっと二人とも二年生なのかもしれない。錦木先輩はキッと安以子先輩のほうを見たが、殴り返すことはしなかった。それどころか、安以子先輩がひどく悲しそうな顔をしているので、怒りすら冷めたようだった。
「あんたにとっちゃどうでもいいかもしんないけどさ、瑠穂にとっちゃ大事なものなんだ。確かにアタシもあいつの考えには反対だったけど、ロードの大会には自由に出られる。愛好部って名前こそ変わったけど、自転車に対する情熱にかけてはあいつもアタシ以上に持ってるんだ。昨日だって後輩二人を連れて輪行だってやってる。ちゃんと自転車部らしい活動は一応やってるっちゃやってるんだ。なあ錦木、瑠穂の自転車返してくれ。そんで、部活に戻って来いよ」
 錦木先輩はギラリとした感情を引っ込め、影が差したようにおとなしい口ぶりになった。
「……俺はもう部活はやらない。チャリもやらない」
「おい錦木、どうでもいいなんて嘘だろ? 毎朝チャリで何キロか走って来てるくせに、どうでもいいわけがないよ」
「……なんで知ってんだよ」
「毎朝汗だくでロードに乗って登校してるくせになに言ってんだ。見てないとでも思ってたのか。最近は冷えてきたからそこまででもないけど、九月頃はずっとそうだった……」
 しばらくの間、安以子先輩と錦木先輩との間に気まずい沈黙が降りた。その重圧に耐えきれなくなったかのように、
「……ふん。わーったよ、こいつは返す。だが部活には戻らない。もう決めたことだ。行くぞ、伊吹」
「あっ、ちょっと待ってよ! ごめんね、瀬田目さん。木野戸さんにも謝っておいて」
「なあかしわ、お前も……」
 柏というのは伊吹という男子の苗字らしい。
「……もう無理だよ。自転車に乗れなくなった奴がチャリ部にいたって仕方ないから。それじゃ。おーい、まゆみーっ! 待ってくれーっ」
 安以子先輩をひとり取り残すように、二人は去っていった。陰ながら見守っていたわたしたちは安以子先輩のもとへ駆け寄る。お店の壁に立てかけられた真っ赤なRX3が夕日を反射して、目の前がちかりと光った。
 
 
「わぁーっ! 安以子、どうもありがとう!」
 自転車屋の店主に店先で騒いでしまったことへの謝罪をしたあと、瑠穂先輩の自転車を転がして部室に戻ると開口一番、瑠穂先輩は満面の笑みとともに感謝の言葉を告げた。
 安以子先輩は一連のできごとを話した。男子部員の二人がもう部活に戻ってくる気がないということについて。そして、安以子先輩自身の気持ちも。
「ふうん、そっか。安以子は自転車愛好部じゃ物足りないのね。でも、これで部員も四人になっちゃったから、定数の五人に満たなくて部活は解散ね」
「解散って、そんな……! なんとか部員を集めりゃいけんだろ? 錦木はまだチャリをやってんだし、なんとか説得して……」
「あら、部活としては解散だけど、同好会としてはやっていけるはずよ。同好会の会員定数は三人だから、私は並木さんと伊呂波さんと自転車愛好会をつくるわ。安以子は? 自転車競技同好会をつくってもいいのよ」
 今まで少し暗い顔をしていた安以子先輩の表情にパアッと光が戻った。
「ありがとう瑠穂! アタシもっかい錦木と話してくる!」
 安以子先輩はそう叫ぶと一目散に部室から出ていった。
「会員集めは明日でもいいのに……。ホントせっかちなんだから。ね?」
 わたしたちは部室のなかで笑いあった。自転車愛好部は、自転車愛好会と自転車競技同好会に二分再編される。それは自転車愛好部内に横たわるしがらみが解かれる最善の手段だとわたしは思った。
「あの、瑠穂先輩。ひとつ訊きたいことがあるんですけど」
 わたしは先ほどの事件で気になったことを訊いてみることにした。トレーニング方法は、またいずれ。
「ん? なあに?」
「柏っていう先輩が、自転車に乗れなくなったって言ってたんですけど、それってどういう……」
「ああ、柏くんのことね。彼、自転車乗ってるときに怪我したのよ。右足の靭帯を切っちゃってね」
「ええっ、大丈夫なんですか?」
「ふふ、もう治ってるわよ、さすがに。ちょうど一年ぐらい前のことだったかしらね。まあ、それで今年の文化祭までは時々部活にも顔を出してたんだけど、私の方針変更がきっかけに錦木くんもろとも来なくなっちゃってねぇ」
「そうだったんですか……」
「まあ、それだけよ。特に深いこともない。ただの怪我で、柏くんは未だにそれを乗り越えられないでいるだけ」
「……臆病な人です」
「こら、並木さん、そういう言い方しない」
 なんだか柏先輩には親近感を覚えた。楓おばあちゃんを亡くした頃のわたしに似ている気がしたのだ。いつまでも、心がなにかに囚われて、先へ進めないどころか周りも自分も見失って、ただただ底なし沼にはまっていくだけなのだ。わたしはいっちょんのおかげで脱することができたが、柏先輩は錦木先輩がいるのにそこから脱することができないのかと思うと、助けてあげたいような気持ちになってくる。でも一体、どうやって?
「まあ、きっと時間が解決してくれるはずよ。自転車への興味は失っていないと思うから、柏くんはこっちサイドに、錦木くんは安以子サイドに入れてあげれば丸く収まるような気がしない?」
「ああ、それがいいですね」
「少しずつ、取り戻せるわよ、きっと」
 瑠穂先輩の言葉は、直接わたし自身にも伝えられているような気がして、そして、そのまま受け取ることにした。
「はい!」
 
 
 わたしはもう自分を取り戻している。でも、楓おばあちゃんがいなくなって、ぽっかりと開いた穴は未だに空洞になったままで、そこを埋めていかなければならない。でも元通りになることはないし、完全にきれいに修繕することもできない。忘れずに、大切にしながら、心の傷を塞いでいかなければならない。穴を塞いだ痕を見るとやっぱり悲しくなるのだろうが、楓おばあちゃんとの楽しい思い出も、やっぱりその痕に刻み込まれるのだ。 
 ああ、なんにせよ、楓おばあちゃんが顧問を務めた部活はこれでなくなってしまったけど、わたしは今最高に楽しい気持ちでいっぱいだった。もう心配はいらない。楓おばあちゃんがくれた自転車に乗ることの楽しさが、こうして仲間をつくり、高校時代に打ち込めるものを見つけられたんだ。
 きっと近々、わたしは先輩たちに連れられてロードバイクかクロスバイクか、はたまたピストバイクか、とにかく新しくスポーツバイクを買いに行くことになるだろう。新しく知り合えた安以子先輩や、受験間近なのに時々やってくる瑞樹先輩、それにまだ見ぬやる気のない顧問の先生、あるいは瑠穂先輩が打診して新しく顧問の座につく先生どちらかの指導のもと、競技大会に出ることになるかもしれない。それはなんだかとてもワクワクすることだし、あのときの暗い自分はもうわたしのなかにはいない。
 楓おばあちゃんがくれたものは全部、今もここで回り続けている。
 ありがとう、楓おばあちゃん。
 わたしは窓の外、ぽぽぽっと粒状に並んだいわし雲が浮かぶ秋空の果てに向かって、心のなかでそっとそう呟いた。
 
 

Thank you for reading.
2011.09.30

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