てのひら



 大勢の人が右へ左へと行き交う東口の駅前、僕は人ごみの川を渡って信号待ちをしていた。首都圏の繁華街の駅で、信号はなかなか青になってはくれなかったけれど、今は日曜日の昼下がり、時間に追われる理由もないので、雲がいくつかそこに置いたように浮かぶ五月晴れの青空をぼんやりと眺めながら待っていた。行こうとしている場所はあるのだが、その目的はただの買い物なので通りをぶらぶら歩きつつその用事を済ませようと思っていた。無論そんな買い物などいつでもできることで、今日絶対に行かなきゃいけないわけじゃない。ただなんとなく今日が暇で、なんとなく街に出ようと思っただけだった。
 思い出したかのように信号が青になって、ぼーっとした頭がそれに気づいて少しだけ覚醒する。待っていた人の塊が動き出し、僕もそれに倣って一歩踏み出そうとした。しかしその瞬間、ふいに道を塞がれてしまった。声をかけられて、見知らぬ人が僕の前に立つ。
「あの、すみません。少しお時間よろしいでしょうか」
 なんだ、この気弱そうな男は、と僕が訝っているとその男は返事も待たずに早口で続けた。
「あの、今手相の勉強をしているんですけど、ちょっとみせていただいてもよろしいでしょうか」
 出た、と僕は思った。前々から小耳に挟んでいた、いわゆる宗教勧誘の手相見だ。こういうのは相手にしないで、無視するか適当に受け流してやり過ごすのが一番だ。
「すみません、急いでるんで」
 別に急いでなんかいないけれど、こんなどうでもいいことにつきあっているような無駄な時間は持ち合わせていない。
「いや、ほんの数分で構わないので、お願いします」
 男は執拗に話しかけてきて、僕は正直かなり鬱陶しく思っていた。どうしてこんなにも人が溢れる都会の中で僕なのだろうか。僕以外の誰か、それこそそういうものに興味のありそうな人に声をかければいいじゃないか。僕じゃなくたっていい。僕である必要性がまったくない。
 気がつくと信号は再び赤になっていた。徐々にまた信号待ちの人も集まり始めてきて、手相鑑定を迫る男とそれを拒否しようとする僕に少なからず周囲の人の意識が向けられてきていた。こちらを一瞥する人や、それこそ迷惑がっている人がいるような気もする。都会の真ん中で目立つということが、僕にはとても耐えられなかった。
「――じゃあ、少しだけ」
「本当ですか! ありがとうございます。じゃあまず、利き手はどちらか教えてもらってもいーでしょーか」
 なぜか利き手を聞いてくる男に、僕は右ですと答えようとした。答えようとしたところで、僕と男との間に一人の女の子がすっと割り込んできた。
 なんなのだろう。僕は少しだけびっくりして一歩後ずさりしたけれど、もしかしたらこの女の子はそういう宗教的なものに興味がある人なのかもしれない。だったら好都合だ。僕はこの男に関わらないですむし、この男も目的を達成できる。偶然の助け舟だった。
「ねえ、だったらあたしの手相みてくれる」
「え、あ、はい……。わかりました」
 女の子はどこか不敵な微笑を浮かべている。だが逆に男は突然の展開で若干おどおどしていた。
「じゃあまず利き手がどちらか教えてもらってもよろしいですか」
「は? 利き手がどうしたの? 手相は両手で見るもんでしょ。右手と左手で意味が違うんだから。そんな基礎のことすらわかってないの」
 確かに手相は利き手が関係していると聞いたことはある。でも、やっぱりそんなものはまやかしだったのだろう。恐らくこの男が所属している宗教団体が流した間違った手相知識、つまりデマに過ぎないということだ。
「え、と、まずは利き手を教えていただかないと……」
「だから、利き手なんて関係ないって言ってるでしょ。右手は体や自分のこと、左手は精神や相手のことを表しているんだから。そんなことも知らないで手相みようとしてたの」
「いや、あのですね」
「話にならないわ。もう一度ちゃんと勉強してから出直してくるのね」
 彼女は宗教勧誘の男を見事に煙に巻いていた。宗教に興味があるわけではなく、ただ単純に手相に興味があるだけだったみたいだ。手相学において、左右の手でそれぞれ意味が違うなんて全然知らなかった。宗教勧誘の一環としての手相鑑定なんて、もはや手相鑑定とは呼べないと僕は思った。
「どっか行かない? 立ち話もなんだし、あいつから離れよう」
 その女の子は僕の方を振り向くとそう言った。建前上知り合いの振りをして、とにかくこの場から立ち去ろうという計画だ。僕は無言で賛成して、並んで足早に歩き出した。
 が、不意に腕を強く掴まれ、危うく転びそうになった。
「ま、待ってください! お時間は取らせませんので、ほんの二、三分で構わないので」
 必死にすがりついてくるみすぼらしい男。こんなやつが街中にいるなんて。僕はひどく幻滅した。
「ふざけんなっ! まともな知識も見につけねぇで金を奪い取る詐欺野郎がっ! 新興宗教やんのは自由だが、一般市民を巻き込んでくれるなっ!」
 その女の子の怒声は、いわば宗教差別とも取れるものだった。周囲の人の視線が突き刺さってくる。この街にはもちろんキリスト教の教会もあるし、イスラム教の人も駅を利用するし、托鉢修行をしている坊さんも街角に立っている。無宗教だからこそ複合的に宗教を受け入れる国、日本。
 彼女は男の手を僕の腕から払いのけて、今度は逆に僕の腕をとると小走りに近い速さでその男から離れようとする。僕も自然と軽蔑の眼差しを男に注いでいた。やつは何も言えなくなって、呆然と突っ立ったまま人ごみに飲まれた。
 彼女は何のためらいもなく見ず知らずの僕と並んで歩き出した。僕たちは横断歩道を渡って、たくさんの店が立ち並ぶ通りへと向かった。
 彼女は何も言わず、怒ったようにチェーン店の喫茶店の自動ドアのボタンに手を叩きつけると、僕たちは二人掛けの席に向かい合って座った。
「あーっ、ごめん。いきなり癇癪起こしちゃって。あいつ、ちょームカツクやつだったね」
「うん。なんか、こっちこそごめん。助けてもらっちゃって」
「あー、いいのいいの。ああいうやつ見ると、無性に殴りたくなっちゃうんだよね」
 そういうと癇癪持ちの女の子は顔の横でこぶしをつくってみせた。そこで何かに気がついた。彼女の顔を改めて見てみると、何だか以前に見たことがあるような気がした。歳はきっと同じくらいだけど、どこかで、それもとても近い場所で見かけたような気がするのだ。
「そういや、いきなりカフェなんか入っちゃったけど、大丈夫だった? ……ね、どったの? ぼーっとして」
 不意に話しかけられて僕はどきっとした。そんなに彼女の顔を見つめていたのだろうか。少し恥ずかしくなったけど、彼女も僕の顔を見て何かに気づいたみたいだった。
「あれ? えーっと、なんだろう。君の顔、どこかで見たことがあるような気がする。うーん……。あ、そうだ、名前聞いてなかったよね」
 なんと驚いたことに彼女も僕の顔を見知っているというのだ。これは偶然ではないのかもしれない。
「僕は斉木さいき斉木音雅さいき おとまさ。えーっと君は」
安永優芽やすなが ゆめよ。って、斉木くんかあ、斉木斉木……」
 彼女は僕の名字を呟いて、何かを思い出そうとしていた。僕も安永という名字を知っている。とても近くで見たことがある。それは、確か――。
「あ!」
 二人はほぼ同時に叫んでいた。お互いに関わったことはないけれど、記憶の片隅に埋もれていた名前。
「もしかして一組の斉木くん」
「安永さんって、三組の?」
「ああなんだ、あたしたち同じ学校だったの? どうりでどっかで見たことあると思った」
「うん。でも同じクラスになったことないから、全然気がつかなかったよ」
 どこかで見たことがあると思ったらそういうことだったのか。三年生になるまで一度も話したことがない同学年の女の子とこうして連休の終わりに出会うなんて、なんだか不思議な気持ちだった。
「そうかー、バレちゃあしょうがないわねー」
「え、なにが」
「あたしが手相占いやってるってこと。うちの学校にさ、占術研究会あるの知ってる?」
「せんじゅつけんきゅうかい?」
「うん。占い全般をやる同好会。星座占いとか六星占術とか、タロットやホロスコープや易占なんか。でも、今は手相占いしかやってないんだ」
 僕は部活に入っていないし、入ろうともしなかったから自分の学校にどんな部や同好会があるのかよく知らなかった。野球部とかテニス部とか、そういうメジャーなものはどこの学校にもあるからわかるけど、同好会ともなるといくつもあるから正確に記憶してはいなかった。ましてや今まで占いになど興味も持たなかった僕にとっては目に入ることもなかっただろう。
「そうなんだ……。あの、どうして」
 僕はなぜ今占術研究会が手相しかやっていないのか聞いてみた。何か事情があるように思えたのだ。手相しかやらないのなら、手相研究会に改名すればいい。
「今はあたしだけなの。メンバーはあたしひとり。だから、まあ、それだけ」
「それだけ、って……。来年には廃部になっちゃうってことだよね。先輩もいないの」
「うん。あたしが入ったときには三年の先輩が一人と二年の先輩が二人いたのよね。それに同じ学年にあと二人いたんだけど、その二人もやめちゃって、おまけに去年も今年も新入生は誰も入らなかったわ。それで、今はあたしだけというわけ」
「それは、なんだか寂しいね」
「心配してくれるの? ありがと」
 確かにそれはどこか寂しかった。だって今までの経緯とか、そこに流れてきた時間とか、感じられる雰囲気とか、そういった積み重ねられてきたものが一瞬で無にかえってしまうように思えたから。そして、恐らく部室棟のその一室は次の年度から違う部活か同好会が使うことになる。今までのものが全部ふいになって、まったく別のものに変わってしまう。
「あ、そうだ、じゃあ手相みてよ」
「え? 今、ここで?」
「うん、だめかなあ。さっきの続きをもっと聞きたいな」
「うーん、しょうがないなあ。ちょっとだけね」
「ありがとう。ごめんね、無理言って」
「いいわよ、そんなこと。じゃあ、手出して」
「両手だよね」
「うん」
 こうして手相鑑定が始まった。同じ学年の女の子に手を触られるというのは少しどきどきしたけれど、安永さんはさばさばした性格だからそんな気持ちはすぐにどこかへいってしまった。
「えーっと、まず、そうね。性格面からいこうかな。親指と人差し指の間から出てて、下に伸びてるのが生命線、てのひらの真ん中を横切っているのが知能線っていうんだけど、この二つの線の出発点がくっついていると消極的なの。だから、斉木くんは消極的ってことね」
「へええ、そうなんだ。当たってる」
 確かにそうだ。消極的で、後ろ向きの人生。さっきのこともそうだったけど、僕はあんまりきっぱりとものを言えない。
「で、さっきの知能線が下に向かっているでしょ。それは空想家で想像力豊かってこと。まあ、ロマンチストタイプってことね。逆にそのまままっすぐ伸びているとリアリストっていうこと。下に伸びてると現実逃避が好きだっていうのもあるわね」
「うわ、そのとおりだ」
「知能線の終わりの方がいくつか枝分かれしてるじゃない?」
「うん」
「それはいろんな才能を発揮できるっていうことね。でも基本的に下に向いているから、小説家とか芸術家に向いてるかもね」
「おおー」
「あと結構長いから長考タイプかも。考え込みやすいっていうか。てのひら全体に細かい線も多いから、悩みやすいっていうのはあるかもね」
「そうだね。結構悩む方だよ」
「うん。で、小指の下のほうから中指というか人差し指の方に伸びてるのが感情線っていって、それなりに乱れてると感情豊かなんだよね。それで斉木くんのは中指あたりで上に向いてるでしょ。これは感情を外に出しやすいってこと。長さも短いから、自己中心的な理由で感情的になっちゃうことがあるんじゃない」
「あー、そうなんだよねえ」
「感情線の上にもう一本線があるでしょ。これは二重感情線にじゅうかんじょうせんっていって、感情の二面性とか、過去に辛い経験があるとか、そんなときに出る線」
「なんか、過去を見透かされているような気がする……」
「ふふ。それで、生命線はさっき言ったやつなんだけど、特に問題はないかな。ただ終わりの方に障害線が何本か横切っているから、晩年は病気とかになるかもね」
「生命線って、短いと危ないって聞いたことがあるんだけど、それって本当?」
「ううん。生命線の長さイコール寿命っていうのも、さっきの利き手がどうのこうのってやつと一緒で嘘っぱち。長いと体力があって、短いと体力がないっていうだけの話よ」
「ふーん、そっか。まあ年取ってから危ないっていうだけで、健康には問題ないっていうことかな」
「うん、そういうこと。簡単にみるとこれぐらいかな。ほかにもみれる線はいっぱいあるんだけどね。どうだった、当たってた?」
「うん、当たってるところはかなり当たってる。感情線とか」
「それはよかった。……って、あんまりよくないか」
「はは。うん、まあそうなんだけど、それは自覚してるし、実際に過去もそうだったから」
「ふうん、そっか。あたしは逆に感情線まっすぐで平坦なんだけどねー」
 そういうと安永さんは両のてのひらを僕の方へ差し出した。
「ほんとだ」
 確かに安永さんの小さな手に刻まれた感情線は乱れのないくっきりとした直線だった。
「手相がまったく同じ人なんていないし、それに手相って変わるものだから、そんなに気にしなくてもいいんじゃないかな」
「手相って変わるんだ。それも知らなかった」
「うん。気がついたら変わってるってこと、やっぱりあるよ」
 手相は変わる。それはもしかしたら、運命っていうものも変えられるということなのかもしれない。初めから定まっているものなんかなくて、人はその一生をどんな風にでも変えていける。そういうことを暗示しているんじゃないかと僕は思った。
「あの、じゃあ、どうして知能線とかの始まりや終わりでこういう意味があるっていうのがわかるの」
「それはね、てのひらの上にはおかっていうものがあるの。人差し指の付け根の下のところは木星丘もくせいきゅうっていったり、親指の付け根のあたりの盛り上がっている場所、まあ盛り上がってない人もいるんだけど、ここは金星丘きんせいきゅうっていったり。てのひらの真ん中のとこは火星平原かせいへいげんっていったりね。まあ、それぞれに意味があるのよ」
「そうなんだ――」
 僕は今日の今まで手相なんてまったくアテにならない、取るに足らないその他諸々の占いと同じで、信憑性などかけらもないと思っていた。でも、どうだろう。僕は手相というものに他の占いとはどこか違う、ある種魅力的なものを感じてきてしまっていた。
「どうして手相を?」
 僕は自然とそう聞いていた。彼女が手相を始めたきっかけを、なんとなく知りたかった。
「うーん、なんでだろうな。あたしは少女じみた占い――星座占いとか花占いとかが嫌いだったから。それに、手相は心を映す鏡っていわれてる。過去も現在も未来もてのひらの上に刻み込まれてる。それがすごく素敵なことに思えたのよね」
 生命線、知能線、感情線、そして運命線。てのひらの上に刻まれたいくつもの、ありとあらゆる線が自分の心を、過去を、未来を写しとっている。それに丘。木星丘や金星丘、太陽丘たいようきゅう水星丘すいせいきゅう月丘げっきゅう、火星平原、冥王星国めいおうせいこく。僕は今日手相というものと知り合って、自分のてのひらの上に壮大なる時間の流れと宇宙の拡がりを見たような気がした。あくまでも、そんな気がしただけだけど。
「そろそろ出ようか。あたしはもう帰るつもりだけど、斉木くんはどうする?」
「そういえば買い物しにきたんだった。忘れてた」
 僕たちはアイスコーヒー二杯分の会計を済ませ、店の前で別れることにした。別れ際に、僕は思いきって聞いてみた。
「……あのさ、占術研究会に入ってもいい?」
 安永さんは一瞬きょとんとした顔になったが、すぐに笑顔になった。今日の五月晴れのような、とびきりの笑顔だ。
「もっちろん! 部室の場所はわかるよね」
「うん。壁に貼ってある割り当て表を見るよ」
「ええっと、なんていうか、ありがと! それじゃあまた学校で、部室で待ってるよ」
「うん、また」
 彼女は大きく手を振って帰っていった。僕はのんびりと買い物を済ませ、準急でゆっくり帰った。占術研究会に入る。それは僕の虚しい生活を、少しでも彩りあるものに変えてくれそうな気がした。僕は電車に乗ってからしばらくの間、自分のてのひらをじっと見つめていた。自分の心の中を、じっと。
 
 

後編(please wait)→
 
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2009.7.30
(2010.11.14 加筆修正)