空しいほどに青すぎる空

 
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 夏休みが終わっても、景色はそうすぐには変化を見せない。残暑はあるし、秋と呼ぶにはまだ早い。セミの声も残響のように、僅かながらも辺りに響いている。
 そんな中途半端で、境目の時期。佐口麻衣さぐち まいは憂鬱な気分を引きずりながら、徒歩数十分の学校への道を歩いていた。今年の夏休みは随分と味気のないものだったなぁ……。受験勉強と塾、宿題に追われ、遊ぶ暇もなくただただ流れ去っていくような中身の薄い日々を、私は思い返していた。しかも辛いことに、いつも一緒にいた大切な友達が私の隣にはいなかったのだ。
 水谷望みずたに のぞみが入院してからすでに一ヶ月以上経っていた。心臓に重い病気を患い、今も病院で苦しみ、辛い日々を送っている……。夏休み中、私はずっと重い気持ちにのしかかられていた。大切な友達に毎日のように会うことができない。会うことができるのは、お見舞い時の隔絶された病室の中だけ。どんなに時間があろうと、どんなに会いたい気持ちがあふれていようと、面会時間には限度があるし、さらに今年は高校受験という忌々しいものまで存在していたため、塾の都合でお見舞いにいけないということも一度や二度ではなかった。そういうわけで、今年の夏休みは常にストレスにつきまとわれていたのだった。
 そう、今年は高校受験。毎日のように塾に通い、参考書を睨みつけながら勉強に明け暮れなければならない。一年前までは考えられなかった多忙な日々についていけないのも当然だった。
 しかし、今はただひたすら目の前に課せられた試練を乗り越えていくしかない。誰もが未来に夢を抱き、自分の将来に淡い希望を寄せ集める。楽しさが満ち溢れた高校生活。部活に、恋愛に、友情。そんな一握りの青春を求めて、今の辛い受験を乗り越えていくのだ。
 だけど……、と私は考えた。望があんなにも死にそうなほど辛い毎日を送っているというのに、私はこんなに五体満足で、のうのうと受験勉強に励んでいていいのだろうか……。
 何が幸せで、何が不幸なんだろう。受験勉強ができるということは幸せなの?こんなに大変な、頭からつま先まで勉強漬けの毎日でも、それが幸せと呼べるの?むしろ私には、望のほうが……。
 いや、やめよう。望だって望なりに頑張っているんだもの。私も無事に第一志望の高校に合格して、そして望も退院して、一緒にその喜びと幸せを分かち合おう。それが、私の受験に対する目標で、その試練を乗り越えた先にある淡き希望なのだった。
 まだ熱気がもうもうと立ち昇っている、太陽に焦がされたアスファルトを見下ろしながら歩いていく。そうして無心になると、何もかもが憂鬱の渦に飲み込まれていくみたいだった。
 自分のすぐ脇をトラックが走り抜ける。暑さが残滓のように溜まり、淀んだ空気に一瞬の冷気を吹き込む。はあ、とため息をつき、視線を上に向け、まだ夏の気配を残している青空を見上げた。
 私の心とは裏腹に、空は空しいほどに青すぎて、雲は呆れるほどに白すぎた。
 
 二学期になると、受験を意識した対策的な授業が始まるだろう。そして受験期間に入るまでは、惰性的で、流されていくような日々が続いていくのだ。しかし、それもあと数ヶ月もすれば緊張と不安にのしかかられる、どこ かやり場のない苛立ちに包まれ、そしてじりじりと未来への不安が肌を焦がす日々に変わっていくのだろう。それは想像もつかないだけに、もう全てを放棄して先へ進むことをやめてしまいたい気分だった。
 そんな暗い気分に浸っていると、ふと誰かが走ってくる足音が聞こえた。二学期初日から元気だなぁ。
「おはよーっ! 麻衣、何だか浮かない顔してるねぇ。楽しい夏休みも終わって今日から新学期。クールな麻衣でもさすがに憂鬱なわけだ」
 いきなり後ろから背中をどつかれ、私は前へつんのめりそうになった。後ろを振り向くと、受験に対する不安と憂鬱を一かけらも見せない瀬戸茜せと あかねの笑顔がそこにあった。朝から既にハイテンションなようだ。
「誰だって憂鬱でしょうが。毎日のように塾に行って勉強勉強。そんな夏休みなんて、全っ然楽しくなかったんだから」
「はいはい、受験ね。あたしだってそれなりに勉強してるつもりなんだけど」
「うそ。その顔を見ると、夏休みは遊びに遊びまくったって感じだね」
「まあ、それは、あれだよ」
 茜は苦笑いをしながらもごもごと言った。
 まだ夏のような太陽の日差しがじりじりと路面を焼く。どこかでセミがか弱い声で鳴く。私と茜のすぐ横を通り過ぎる車、車、車。噴き出す排気ガスとその熱。なんだか、ふっと気が遠くなったような気がした。
「高校っていってもねぇ。あたしは麻衣みたいに有名な私立進学校じゃなくたっていいんだよねー。とりあえず高校には行ければいいし、大学いくとか専門いくとかは入った後から決めるよ」
「うーん……。みんなそんなものなのかなあ」
 私は少し不安になった。というのも、茜の言うとおり、私はそこそこ偏差値の高い有名な私立進学校を第一志望として狙っていたからだ。公立の高校でも構わないのだが、将来のことを考えると……、ということになってくる。つまり「今」を重視するか、「未来」を重視するか、ということなのだ。
「まあ、あたしはなるたけ近い公立受けるよ。せめて自転車でいけるところね。電車使って何十分もかけてまで学校いくなんてあたしには苦痛だし、絶対無理」
「私の志望校は全部電車で何十分もかかるところにあるんだけど・・・。それに私、そこを受けようかどうか未だに悩んでるのよね。公立や他の私立もいいような気はするし、何よりも失敗したくないし……」
「あはは。でも麻衣はさ、勉強できるし、将来見据えて偏差値高いとこに行くべきじゃないかな。通学時間なんて気にしない気にしない。麻衣ならできるよ。望にもそう言われてるんでしょ?」
 そう、今も寝たきりの望は、自分の分も勉強してほしいと私に言ったのだ。いつ治るともわからない病気を抱えていては、学校へ行くことはできないのだから。
「そうだけどさー……。ああーもう、何でこんなに悩まなくちゃいけないんだろ」
「はっはっは。それが受験というやつなのだ」
 受験勉強なんてどこ吹く風、茜はしたり顔でそう言うと、弾んだ足取りで校舎に入っていった。
 
 新学期の全校集会での空気はどこか淀んでいて、夏休みへの名残惜しさとこれからの毎日への憂鬱が体育館に座る生徒たちの隙間に澱のように沈殿していた。
「はぁ……」
 どこからともなくため息は絶えず耳の中に飛び込んでくる。それもそのはず、雑音のように響いていく退屈な話の中では端々に勉強だの受験だの将来だのと、聞くだけでやる気を失くさせる言葉ばかりなのである。
 今日はこの集会が終わった後、自分たちの教室へいって担任の先生からしょうもない話を聞き、提出日が今日となっている夏休みの宿題を出すだけの、気の抜けた一日だ。
 受験かあ……。いよいよ、四ヵ月後なんだなあと考えてもいまいち実感は湧いてこない。とにかく今は勉強勉強。自分から進んでやろうと思わなくても、塾へ行けば否応なしにそれが強要される。毎日のように過去問を解かされ、小テストも毎時間あり、宿題もどっさり。正直塾をやめたいと思ったことは一度や二度ではなかった。
 それでも、私は高校に受かりたい。自分の将来のために、一番行きたい高校に合格して、望と喜びを分かちあい、自分の選んだ道を歩んでいきたい。
 しかしその反面、やっぱり勉強は嫌だった。やらなければと思っても遊んでしまうし、時間がないと言いつつも、暇な時間をもてあそんでしまう……。
 後悔したときには既に遅い。親や教師の期待に応えるため、あるいは自分の将来設計のために、毎日机に向かってペンを持つ。渦巻く負の思念は留まるところを知らず、溢れ出し、私の体から放出されそうだった。
 ふと気づくと、ざわざわと他愛のない雑談が当たり一面に漂っていた。どうやら、またしても暗い考えに没頭しているうちに、全校集会は終わっていたらしい。
「麻衣〜。また何か鬱ってたでしょ。暗いよ? 鬱オーラが滲み出してる感じする。まったく、何か悩みがあるとすぐそうなんだから。望がいないと何もできないの?」
 茜に指摘されて、私は少したじろいだ。そうなのだろうか? 親友である望がいなければ、私は何もできないのだろうか。茜も大事な親友であるはずなのに? いや、茜は茜なりに私のことを心配してくれているのだ。
「そんな言い方ないでしょー。私だって人並みに悩みはするもの。憂鬱という言葉が似合わなすぎる茜のほうが不思議だよ」
「あたしは常にプラス思考で生きているのだ、はっはっは。高校受験なんてなせばなる! 怖いものなんてないっ!」
「ある意味では、その精神は尊敬に値するよ……」
 私は皮肉めいた突っ込みを入れた。
「なにー? プラス思考のどこが悪いの? うじうじ過去や未来についてあれこれ悩むよりも最高じゃない。今が楽しければそれでいい! 素晴らしいね」
「どこが? ……まあ、今が楽しいって思うことは、何においても大事なことかもしれないね」
「でしょー。それでね……」
 なぜ茜はこんなに楽観的でいられるのだろうか。全く不思議でならなかった。
 次々と口をついて出る楽しそうな茜の言葉に、私は空しくも相槌を打ち続けていた。
 
 

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