空しいほどに青すぎる空

 
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「行方不明……? 一体誰が?」
「三組だったよね。……えーと、名前何ていったっけ?」
「確か結城ゆうきっていう子だよ。ちょっと暗い感じのする奴。夏休みが終わると同時にいなくなったんだってさ。家出か事件かはまだわかってないらしいけど」
「ふーん、初めて聞いた。受験を苦に家出ってやつかな」
「さあ、わからないけど、そうじゃない? 私、あんまりその人のこと知らないんだよね」
 
 秋も半ばに差し掛かった頃、外は秋の長雨が大地を叩きつけるように降りしきっている。そんな気だるい日常に、一筋の亀裂が走った。私は偶然、教室の後ろで三人のクラスメートが話していることを聞いてしまった。
 行方不明。そんなことが、この受験勉強に浸たりきった日常生活で発生するなんて。私の中では、想像だにしない大きな不安が一途に膨らみ始めている。ましてや、その行方不明の子というのが……。
「麻衣、聞いた? 美晴みはるが行方不明だって!」
 早速噂を聞きつけたであろう茜が、私の目の前の席に腰を下ろした。不安と心配をごちゃ混ぜにしたような顔をしている。
「うん、さっき知ったよ……。まさか美晴が……。大丈夫かな……」
「うん……。最近学校来てないなと思ったら、まさか、行方不明だなんて……」
 二人で黙りこくる。その行方不明となっている結城美晴は、私と望と茜の中学三年生になってからの友人である。その友人が受験を苦に家出……。確かに、美晴には暗くて脆い部分はあったかもしれない。でも、私たちに悩みを打ち明けてくれれば、いつでも相談に乗ったのに……。
 独りで悩み、苦しみ、打ち出した解答が家出だというのか。それはどこか取り返しのつかない、裏切られたような結果だった。私は非常に絶望的な気分になった。
 また一人、友達が私の側からいなくなってしまうのだろうか……。
 私と茜はどちらからともなく外を見た。絶え間なく降り続ける雨、雨、雨。恵みの雨とは言うけれど、ここまで度が過ぎると迷惑極まりない。この雨の中、どこかの建物の下で、独りうずくまっているであろう美晴の姿が嫌でも目に浮かんでくる。
「美晴……」
 今ここで受験に対する悩みと戦っている私たちが、たとえどんなに祈っても、信じても、何をしても、もうそれに挫折し、諦めてしまった美晴には決して届かない……。
 キーン、コーンという昼休みの終了を告げるチャイムの音で、私と茜はハッと我に返った。それぞれの席に戻り、何度も何度も繰り返す、受験を意識した授業の準備を始める。
 美晴も、望も、茜も、私の大切な友達。この三人がいたからこそ、幸せとはいかないまでも、楽しい日々を送ってくることができた。美晴と一緒に過ごした時間は、他の二人に比べて少ないけれども、そんなものは一切気になるものではない。大切で、絶対的な存在である三人の友達。そのうち二人、望と美晴が、私の側から消えてしまった。視界の外のどこか、遠くて手の届かない世界に行ってしまったのだ。そしてもしかすると、もう二度と会えないことになるかもしれない。
 目から滲み出てきた液体を、眠気覚ましに目をこするふりをして拭った。
 四方八方から襲い掛かる雨粒という名の弾丸。水溜りから飛び掛る雨の雫。私を薙ぎ払うかのように吹きつける横風。右手に手にした傘を守りの盾に、左手に握ったハンドルを唯一の武器に。土砂降りの雨で満たされた世界で、必死に自転車を漕ぐ。靴が濡れ、靴下が濡れ、足に雨粒が飛散する。そう、私はあたかも戦場にいるかのようだった。
「雨なんて大っ嫌いっ! ああもう、憂鬱憂鬱〜っ!」
 雨に対する嫌悪感が時が進むにつれて、比例しながらむくむくと増大していく。びちゃびちゃと降りかかる、停止することのない雨。私は梅雨と、この秋雨が大嫌いだった。厚い雲の下の薄暗い世界では、ひどく陰鬱な気分になってしまうのだった。
 望の病気。美晴の家出。茜の楽観。私の憂鬱。
 全てが事前から当たり前に起こるようにプログラミングされていたかのような、あるいは嵌まるはずのジグソーパズルの一ピースであるかのようだった。
 そして、この大雨と高校受験。何から何まで神の意図的な嫌がらせであるように思えてならない。日に日に憂鬱とストレスは、もうずっしりと重いはずのスポンジにじわじわと染みこんでいく。
 ごちゃごちゃと考えているうちに家に着いた。私は傘をたたみ、家のドアを開けた。
「ただいま〜……」
 学校が終わっても、今度は家で勉強しなければならない。宿題もあるし、テストもある。どこか割り切れない、もやもやとした思いが、何かの弾みに堰を切ったように溢れてしまいそうだった。
「美晴も、この憂鬱と圧迫に耐えられなかったのかなぁ……」
 私はそうひとりごちた。たぶん、きっとそうだろう。大人でもなく子供でもない、ある種の中間的位置の入り口に存在する私たち。ふとしたきっかけで、あっという間に自分の中の何かが崩壊する、そんな脆弱(ぜいじゃく)で不安定な私たち。
 私は部屋のドアを閉めたと同時にベットに倒れこんで、目を閉じた。ため息をつき、寝返りを打ち、時計を何気なく見やる。
 幸い、今日は塾のない日だった。このまま寝てしまうのもいいかもしれない。だけれど、そろそろ十月も終わり間近、受験勉強もしなくちゃ……。
 何だか泣きたくなってきた。佐口麻衣は勉強ができるから、レベルの高い塾に通ってるからという理由で、周りからの視線が他のみんなとは違っているという感覚がある。それは羨望なのか憎悪なのか、わからないけれど。
 勉強ができるということはいいことなの? それとも、勉強ができるから目障りなの? 塾で学校よりも先のことをやっているから、問題を多く解かされているから、他のみんなよりもちょっとだけ進んでいるというだけで……。何もかも、私自身に初めから備わっている能力なわけではないのに……。どこの高校へ行こうと、どこの塾に通おうと、テストでどんな点数をとって順位がどうであろうと、全部私自身のことで他人には全然関係ないというのに。
 受験勉強。それは、別に誰かが強制したわけでもない。絶対的にやらなければならないものというわけでもない。もともとは私が望んだことなのだ。やめようとその気になれば、いつだってやめることはできる。だけど、私は受験勉強をする。それによって開かれる、私の未来という曖昧なものに、希望を抱いているのだから。そして私はそれに向かって、ひたすら努力していくのだ。
 そう、全ては自分自身だけが決定権を持っていることであり、放棄するも努力するも自分が決めること。勉強がしたくないならしなくてもいいし、受験勉強によって辛くなったのなら家出だってしていいだろう。
 そう思い、私は望のことを考えた。望は選ぶことはできない。死ぬか生きるか。そのどちらかが運命的に決まってくる。自分で何かを選択しないというのは、どんなに楽なことだろうか。でも、望にも美晴にも、逃げてほしくなかった。望は生きることから逃げてほしくないし、美晴は受験から逃げてほしくない。私が言うのもおかしな話だけど、前を向いてほしいのだ。
 いつだったか、望にそうメールで送ったこともあったっけ……。
「そうだ!」
 私は思いついた。美晴にもそういったメールを送ろう。少しでも心の負担を取り除ければ、またもとの生活に戻れるかもしれない。
 麻衣はベットから降り、カバンから携帯電話を取り出して開くと、メールのボタンを押した。
 
 こうしてあっという間に秋は去りつつあり、冬へと徐々に変わっていく。乾燥しきってどこか薄くて中身のないような、そんな空しい空が頭上に広がっていた。街路樹の葉もきれいに黄色く、赤く、褐色に染まり、淡い色のグラデーションを作り上げる。
 ……結局、私には何もできなかった。美晴を救うことも、美晴の受け皿になることも。そんな弱さに溺れる自分が、悲しくてたまらなかった。
 送ったメールは返ってきたものの、たった一言、「ごめん」という言葉だけだった。その一言は何万字よりも重く、あまりにも絶望的すぎた。誰よりも受験という憂鬱に飲み込まれていた美晴。誰よりも将来への希望を見出せなかった美晴。そして、苦痛を感じる生活から脱却した美晴。そんな美晴もまた、私の羨望の対象へとなり変っていたのだった。望も、美晴も、茜も。みんなが羨ましい……。最近になって、私は世界から一人だけはみ出されて、切り取られてしまったかのような疎外感を感じていた。望のように病気になって、この受験勉強から逃れたい。美晴のように家出をして、肩にのしかかる誰かの期待の荷を降ろしたい。茜のように楽観的になって、将来への不安感を取り除きたい。
 そして私は、どうするというのだろう。
 行きたい高校はもちろんある。今はその高校に合格したいという思いだけが、私を突き動かしている。内申も関係してくるし、面接もあるから外見にも気を遣わなくてはならない。
 そして私は、何を得られるというのだろう。
 楽しい高校生活? 気の許せる友達? 青春に部活に、甘い恋愛?
 未来なんて誰にもわからないし、わかるはずがない。だけれど、誰しもその未来が明るくなるように望んでいる。だが、その望みが叶うと誰に言い切れるというのだろう?
 さらに悪いことに、先日、望が東京の大学病院へ転院してしまった。それも私にとって、非常にショックなことだった。だけれども、私はもちろん、望ですらどうしようもできないことなのだ。
 それでもやっぱり、どこか受け入れられない、割り切れないものがあるのだった。
 人生なんて思い通りにいかないことは重々承知の上だし、現にそうだ。だけれど、どうしてそれが、望でなければならないのだろう? どうして美晴でなければならないのか? そして、どうして私でなければならなかったのだろう。
 もう、お見舞いには行くことはできなくなってしまった。その大学病院は、かなり遠いところにあったからだ。もちろん今までだって、それほど頻繁にお見舞いに行くことができなかったけれど、今度は受験が終わるまで、あるいは望が退院するまで、会うことができなくなってしまったのだ。
 でもそれは、病気が治ったらの話であって、可能性としてはもう二度と会うことができないのかもしれないのだ。望も美晴も、そういう一歩間違えば奈落の底へと転落する、脆弱的で、不安定な位置に立たされていた。
 そして、私も茜も。
「おっはよー、麻衣! ねぇねぇ見た? 今日のニュース!」
 朝、学校の廊下を歩いていると、茜が後ろから話しかけてきた。そしていつかのように背中をどつかれた私は今度こそ本当に前へつんのめり、冷たい廊下の床に手をついて倒れてしまった。
「あはははー。また夜遅くまで勉強していたな? 鬱オーラが体からあふれ出してるよっ。そんなんじゃ受験どころじゃないよ、麻衣〜!」
 そう言うと茜はさっさと教室に入ってしまった。
「いたた……。今のはやりすぎっ! それに、もう受験まであと二ヶ月だよ? 勉強しないほうがどうかしてるって」
「あたしだって人並みにはやってるつもりだよ」
「そうは見えないけどなぁ……。で、ニュースって何?」
「はっはっは。聞いて驚け! ……なんとっ!美晴が無事に保護されたようであります! じゃじゃ〜ん!」
 少し間が空き、私は腰が抜けたようにその場にへたり込みそうになった。クラスのみんなも茜の言葉を聞きつけ、こちらを注目していた。
 茜が私を支えてくれ、席につかせてくれた。私はため息をつくと大きく安堵した。
「そっ、それ、本当なの? 間違いじゃないよね?」
「もっちろん! テレビのニュースで見たし、職員室前で聞き耳を立てていたから間違いなし!」
 茜の情報は正確らしく、再び私はため息をついた。本当にあの「ごめん」というたった一言のメールには、とんでもなく心が圧迫されていたのだ。それが徐々に消え去っていき、安堵感が体を駆け巡っていく。
「よかった……、本当に……!」
 私は大きくため息をついた。心なしか、クラスのみんなも私と同じ気分のようだった。が、それも当然だった。ただでさえストレスにまみれ、誰もが憂鬱な気分を抱えている。そんな中に行方不明なんて、余計に気が重くなって当たり前なのだ。
「うん。それでね、あさってから学校に復帰するって。今日と明日は様子見だってさー」
 相変わらず茜は誰よりも情報通であり、それがある意味では役に立っていた。
 美晴が戻ってくる。それだけで、何だかこの憂鬱感が緩和されたような気分になり、また前へと進むことができそうだった。受験、勉強、テストと名のつく全てのものは、誰にだって嫌なことに他ならない。だけれども、楽しくて気の合う友達がいればそれを乗り越えていける、そんな気がするのだった。
 教室の窓は冬の訪れを告げるかのように、風が吹くたびガタガタと寒そうに震えていた。
 
 

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