ガラスの音色

 
    - Prologue -
 
 
 漆黒の静寂で満たされた世界の底。気持ちも沈みきったまま、一台の自動車が闇を切り裂いていく。時折ぽつぽつと街灯の明かりや、対向車の眩しいライトに照らされるほかは、カーラジオも平凡な番組で特に面白いこともなかった。弛緩した意識と空っぽな感情でわたしは後部座席に座り、流れ去る夜の底に沈む世界をぼんやりと眺めていた。
 中学最後の夏休みが半分ほど過ぎ去り、今日は久しぶりに夕食を外で食べ、家へと帰る途中だった。わたしは窓の外を流れる風景も見飽き、ラジオの音に任せて終始無言でいた。特に考え事などはしていなかったが、この時間帯に放映されていて、しかも毎週欠かさず見ていたテレビ番組が見れなくなったのが残念だった。ただそれだけで、感情もなく、茫漠としていた。家に帰っても、そろそろ意識し始めた高校受験に向けて参考書を開き、寝る前に読みかけの本を読むぐらいだった。学校と塾の宿題は明日やればいいや、と考えていた。でも明日になってもきっと、明日やればいいやと思うことだろう。そうやって先延ばしにするのは毎年のことだった。
 夏休みだからといって、ちっとも面白いことはなかった。高校受験を意識し始めたといっても、まだまだ先のことだ。今からガリガリ勉強しているのは、余程偏差値の高い進学校や附属校に行く人ぐらいだろう。だから大抵のみんなは友達とカラオケに行ったり、電車に乗って買い物に行ったりしている。家の中で遊ぶにしても、一人と二人では段違いだ。
 友達……。
 いつでもその言葉は、考えるたびに感傷を伴って首をもたげてくる。
 わたしは、いつでも独り。いや、独りを望んでいた。誰かを傷つけ、また誰かに傷つけられるのがひどく嫌だったのだ。
 子供の甘えに聞こえるかもしれない。くだらない、そんな考え自体が誰かに鬱陶しいと思われるかもしれない。でも、変わらないなら仕方がない。友情も恋も、ほしいとは思うが、今のわたしにはいらなかった。どうせあと数ヶ月で高校受験だ。高校に入ったら、少しは世界が変わるかもしれない……。
 そんな風に、憂鬱の底なし沼にはまっていたときのことだった。
 ふいに、何かとてつもなく巨大な不安の波が、わたしの身、いや、わたしたちの乗るこの車に押し寄せてきたみたいだった。台風のような、津波のような、稲妻のような……。
 耳をつんざくような、何かを引っかく音が聞こえた。壊れそうな何かを必死に抑えつけるような音。スポットライトのようにぽっかりとライトに照らされて、眩しいと思うのもつかの間、巨大な質量をもったものが目の前に迫ってきた。突然の出来事に、わたしは事態を飲み込めなかった。ハンドルを切っても間に合わない。ブレーキをかけても無駄。大きなトラックが、わたしたちの車の直前にあった。
 このまま死ぬんなら、それでいいや……。
 衝突する直前、その一瞬にそう思った。何かの世界が滅亡した音がして、何かが弾け飛んで、何かがなくなった。トラックと衝突して、車が大破して、それからどうなったのかはわからない。体が潰れたか、切り裂かれたか。いずれにせよ、何かが終わったのは確かだった。
 このまま死ぬなら、いや、死ねるのなら、まさに願ったり叶ったりだった。
 そう、前々から生きることに嫌気がさしていた。いつ死んでもいいと思っていた。わたしは、何もかも嫌だった。もう学校へ行くのも、親や先生のご機嫌をとるのも、こじれた人間関係に悩まされる日々も、今の自分自身も。わたしは、世界そのものを忌み嫌っていたのだ。
 ガラスのように繊細な心は、壊れてもすぐには戻らない。擦れて、傷ついて、また壊れる。人はそう簡単には変われない。守ってくれる人、あるいは慰めてくれる人がいない人は、いったいどこに心のよりどころを見つければいいのだろうか。
 形式ばった存在ではなく、目に見える形として――。
 
 

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