ガラスの音色

 
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 壊れそうなくらいに繊細なピアノの旋律が聞こえてきたのは、いつもと同じように憂鬱な毎日のある日のことだった。
 浦谷凌うらたに しのぐはその音色を耳にしたとき、不思議な、それでいてどこか心地よい気持ちになった。メロディー自体はいたって普遍的なメロディーだと思うのだが、どこかとてもやさしい音色だった。
 最近は嫌なことつづきだった。それもとても些細なことだったが、積もり積もって、いまや巨大なストレスのモンスターと化していた。とても小さなことなのに、なぜか腹が立った。そして、その小さなことに腹を立てる自分も嫌だった。
 家へと帰る途中、ずっとそんなことを考えていた。
 高校へ入って早一年。自分のこの性格も、中学よりかはマシになると思っていた。それでも、何も変わらなかった。
 凌は、他人の視線が怖かった。いわゆる対人恐怖症ってやつかもしれない。まあ、あくまで自分で言ってるだけだから、本当は違うのかもしれないが。しかしここ最近、誰かと真っ向に視線を合わせられたためしがない。自意識過剰なのか何なのか知らないが、なんだか無性に他人が怖かったのだ。
「この音はどこから……」
 決して大きくはない、けれど道路を走る車の音に容易には吸い込まれない。結構遠くからなのか、建物の中からなのか、それともただの空耳なのか……。
 県道の広い道。最近舗装されたばかりで、歩道も広くなっていた。その脇 には民家が立ち並んでいる。ところどころに小さな雑居ビルも建ちはじめていた。いわゆる都市化ってやつだ。
 そのうちのひとつに、廃墟のような、随分と荒廃したビルがあった。四階建てにしようとしたつもりだが、工事さえまともに終わっていないようだった。一階部分は完成していて天井はあるものの、上階への階段は途中で切れ、二階以上はまったくと言っていいほど手をつけられていなかった。
 ピアノの音は、その廃墟ビルから聞こえてくるようだった。
 何でこんな時間に、それも廃墟からピアノの音が聞こえてくるんだろうか。凌は不審に思った。幽霊ならば、もっと遅い時間に現れそうなもんじゃないか。
 そう疑っているうちに廃墟の前に着いた。やはり、音はこの中から聞こえてくるみたいだった。ドアすら設けられていないので、凌はこっそりとのぞくようにして中をうかがった。
 女の子が一人、ピアノを弾いていた。
 凌から見れば左を前に、目を閉じて弾いている。その横顔はピアノの音と同じく、華奢で、繊細だった。しかし残念ながら、凌は弾いているその曲を知らなかった。
 気づくと、女の子がこちらを見ていた。いつのまにか曲は終わっていたらしい。いや、凌の視線に気づいて演奏をやめたのかもしれなかった。そしてバカみたいに入り口でぼーっと突っ立っている自分を想像して、いつの間にか顔が赤くなっていた。
「あ、いや、ピアノの音が聞こえたもんで、その……」
 凌がしどろもどろに弁解していると、その女の子はクスクスと笑い出した。
「よかった?」
「……え?」
 とっさの質問に、凌は何を聞かれたのかよくわからなかった。
「だから、わたしの演奏、よかったかな」
「あ、うん、よかったよ」
「そう! よかった!」
 そう言うとその女の子は凌に近づいてきた。そこではじめて、凌は彼女の様子に気がついた。歩いてきたのでも、走ってきたのでもない。小さな振動と腕の動きだけで、彼女はこちらにやってきた。
 その女の子は、車いすに乗っていた。
 華奢な腕で器用に車輪の脇のハンドリムを回し、何だか照れくさそうに凌の顔を見た。
「わたし、佐倉佳奈美さくら かなみっていうの。びっくりしたでしょ、こんな体で……」
 確かに驚きはした。凌は今まで自分と同年代の人で、車いすに乗っている人を見たことがなかったからだ。
「いや、まあびっくりはしたけど。……なんていうか、大変そうだね」
「それほど大変でもないよ。ただ普通の人とは生活が制限されちゃうけどね。えっと、君の名前はなんていうの?」
「浦谷凌。そこの公立高校の一年だよ」
 凌の自己紹介は、妙につっけんどんな言い方になってしまった。この女の子、佐倉佳奈美と初めて会ったからというわけではない。初対面の人だろうがなんだろうが、他人と目を合わせるのが怖かったからだ。そして他人と話すのが苦手だった。
 でも、この少女と話すのはなぜだか嫌ではなかった。最近は人と話すどころか、誰かの自分に対する視線が嫌で、いつも図書室なりどこへなりと逃げ込んでいたからだ。
 不思議なコだな……。凌はそう感じた。話していても、逃げ出したくなるような衝動に駆られない。視線を向けられても、恐怖を感じない。なぜだか知らないが、安心できる……。そんな雰囲気を佳奈美は持っていた。
 気がつくと凌はじろじろと佳奈美を眺め回していた。佳奈美はまたクスクスと笑うと、
「車いすが珍しい?」
 と訊いてきた。確かに珍しいといえば珍しいが……。
「わたしもね、君と同じ高校に行こうと思ってたの。でも、突然の事故でね。こうして命は助かったけど、もう一生歩けなくなっちゃった。下半身不随ってやつだね」
 そう言うと佳奈美は少し笑った。それも、それほど悲しくもないといった風な笑顔だった。不憫、という単語が頭の中に浮かんだが、その顔を見てすぐ口にするのをやめた。
「何だか蒸し返すようで悪いけど、その事故って……」
 佳奈美には悪いと思ったが、凌は訊いてみた。ただ単純に、下半身不随の原因となった事故について知りたかった。
「……一年半前の交通事故でね。夜のことで、トラックがわたしたちの車に衝突したの。居眠り運転だったんだって。それで、お父さんもお母さんも死んじゃって、わたしだけ生き残ったの」
「そうだったんだ。……なんか、ごめん」
 凌は謝った。でも、佳奈美は何だか他人事のようで、あははと笑った。
「いいよ、そんなに気にしないで。こうして生きてるだけでも感謝しないと」
「そうか、そうだね……」
 凌は足元が揺らぐような思いがした。生きているということは、感謝すべきことなのだろうか。
「えっと、じゃあ、そろそろ行かなくちゃいけないから。またね」
 そう言ってまた小さく笑うと、佳奈美は廃墟ビルの外に出た。確かにもう大分夜が迫ってきていた。三月とはいえ、まだあまり日は長くない。
「あ、送ってくよ」
 凌はもっと佳奈美といたいと思った。なぜか、居心地が良かったのだ。この無口で陰気な性格が直るとまではいかないものの、すこしはマシになれると思ったのだ。
「ありがと。でも病院はすぐそこだからさ。明日も、またここにいると思うから」
 確かに近くに総合病院があった。佳奈美はそこに入院しているのだろう。
 バイバイ、と軽く手を振って、何度も見せたやさしい笑顔と共に佳奈美は去っていった。背中は車いすの背もたれでほとんど見えなかったが、その笑顔が頭から離れなかった。なぜだろう。佳奈美の楽しそうな笑顔の裏側には、どこか脆い部分があるように思えたのだ。ほんの小さな衝撃を与えただけで、一瞬で崩れ去るような脆さが。そう、今の凌と同じように……。
 耳に残るピアノの音は、夕暮れに染まる車の音に消えていった。
 
 

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