ガラスの音色

 
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 翌日、凌は学校が終わるといつもと同じように、しかしいつもより心持早歩きで学校を後にした。昨日と同じく、あの廃墟ビルで佳奈美に会おうと思ったのだ。
 事故については、佳奈美から聞いた瞬間にピンと来た。すさまじい事故で、大型トラックと乗用車の衝突事故だった。その乗用車に乗っていたのが佐倉一家、ということになる。居眠り運転だったかどうかは覚えていない。何しろ、一年半前のことだ。ただ事故の悲惨さとは裏腹に、ニュースでの取り扱いはひどく淡白で、数十秒で終わってしまったことが皮肉的に感じられたのは覚えていた。
 もう少しで高校一年目が終わるから、中学三年の夏のことだろう。志望校について少しずつ気にしはじめた頃の事故。下半身不随を宣告された佳奈美はどんな心境だったのだろうか。高校へ進学できないと知った彼女は、どう感じたことだろう……。
 そんなもの、ただの想像で補うしかない。他人の感情や気持ちを百パーセント理解することなど不可能だ。ましてや昨日出会ったばかりの女の子の気持ちなんて、少ししゃべっただけでわかるはずもなかった。
 だから、凌はまた佳奈美に会って話をしたかった。そう思うと同時に、変な気分になった。今までは他人との関わりをできるかぎり避けてきたのに、今ではこんなに佳奈美と話したがっている。
 自分の中の何かが、変わりはじめているのかもしれなかった。
 廃墟ビルに近づくと、やっぱりピアノの旋律が聞こえてきた。昨日弾いていた曲とは違う曲だったが、またしてもタイトルはわからなかった。
 なるべく気づかれないようにビルの中に入ったつもりだったが、佳奈美はちらとこちらに視線を投げかけてきた。しかし今日は演奏をやめなかったので、凌は何となく安心した。
 ガラスのように繊細で、ガラスのように脆い。昨日と同じ、そんな音色だった。
 曲調が高まり、そして静かに消え入り、廃墟ビルに反響して曲が終わった。なんというか、才能なのだろうか。凌は無意識のうちに拍手をしていた。
「今日も来たんだね」
 佳奈美は昨日と同じように微笑むとそう言った。嫌がっている感じはなかった。
「うん。学校じゃ、話せる奴があまりいなくてさ……」
 凌は佳奈美にならば、何でも話せるような気がした。友情や恋とかじゃなく、もっと根源的な共通意識みたいなものを昨日見出していたからだ。
「そっか。昔のわたしと同じだね」
「昔……っていうと、中学の頃?」
「うん、わたしも友達いなかったの。今はたくさんいるけどね。お見舞いにも来てくれる。で、浦谷くんが新しい友達」
 そう言うと佳奈美はへへっと照れ笑いをした。やっぱり凌は不思議でならなかった。なぜ、一生歩けない身体で、おまけに両親まで失っているというのに、こんなに楽しそうに笑えるんだろう。
「どうして、そんなに楽しそうに笑えるんだよ? 両親も失って、もう二度と歩けないっていうのに……」
 凌は思い切ってそう訊いてみた。自分も佳奈美のように、楽しそうに笑ってみたかった。
「んー。だってさ、笑ってなきゃ、ずっと暗い気持ちのままじゃない? それってすごく辛いことだよ。わたしも昔は生きてるのが嫌だったけど、今は生きててよかったって思える。両親がいなくなって、初めてそう思ったの」
「でも……」
「もちろん、すごく悲しかったよ。自分も死のうと思った。でも、たくさんの人が心配してお見舞いにきてくれた。ああ、わたしのこと嫌ってなかったんだって、すごく安心したよ」
 本当にそうだろうか。誰も自分のことを嫌っていないんだろうか。凌はとてもじゃないが信じられなかった。
「……俺はこんな人間だから、どうせ誰にも認められないんだよ」
 自分自身に対して吐き捨てた言葉だった。そうだ。才能とか性格がいいとか、人間的にプラスのものがないなら、誰かに認められるはずもないのだ。
「いいんだよ、君は君のままで。世界中の人に認められなくたっていいじゃない。君はその足で歩けるんだから」
 凌は絶句した。五体満足で、地面に足をつけて立っている。歩いている。それは佳奈美にとって、とても羨ましいことに違いないのだ。
「でも、身体の病よりも心の病のほうがつらいに決まってるよ。だって、佐倉さんはそんなに楽しそうに笑ってるじゃないか」
「身体の病よりも……ね。確かにそうかもしれない。でも、いつかはきっといいことあるよ。じゃあ、わたしが君の友達第一号ということね」
 佳奈美は再び照れ笑いをした。友達第一号、か。
 結局のところ、佳奈美の笑顔は悲しみの裏返しのようだった。ずっと暗い気持ちのままじゃやっていけない。楽しそうに笑って、少しでも気分を明るくしなきゃ、辛い気持ちのままだ。まさにその通りだった。だから、凌は佳奈美に会いに来たのだ。暗い気持ちを、すこしでも明るくするために。しかし、凌は暗い話をしてしまった。俺は何を言っているんだろう、と凌は思った。子供じゃあるまいし、どうして割り切れないのか。どうして、もっと前向きに考えられないのか。この壁を越えなきゃ、いつまでたってもこのままだ……。
 その後、佳奈美は凌の学校のことをあれこれ尋ねてきた。だが他人との関わりが浅い凌にとって、面白い話は何もできなかった。今度お見舞いに行くよ、と言って、その日は帰ることにした。
 その後も何度か佳奈美に会いに行った。休日にはお見舞いにも行ってみた。至って順調で、車いすの生活を余儀なくされてしまうが、近いうちに退院できるという話だった。退院すると佳奈美は北海道の親戚の家に引き取られることになっていた。そうなればもう佳奈美とは会えないということになるが、車いすとはいえ自由に生活できるようになれるのは喜ばしいことだった。
 退院するまでの数日間、凌は毎日佳奈美の演奏を聞こうと思っていた。もしかすると、もう二度と会えないかもしれない。二度と、ということはないだろうが、それでもしばらくは会えないのだ。凌の心の扉を開けてくれて、とても大事なことに気づかせてくれた唯一の人間、それが佳奈美だった。
 そして今日も、凌はいつものように廃墟ビルに向かっていた。音が聞こえてきた。だんだんとその音は大きくなってくる。しかし、その音はピアノの音ではなかった。いつもの繊細な音色とはまったく正反対の、何かをガラガラと壊す音だった。
 廃墟ビルは跡形もなく、ただのコンクリートの瓦礫になっていた。
 
 

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