ガラスの音色

 
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 佐倉佳奈美が静かに前を見つめていた。前、とはいっても取り壊しの作業中であるため、少し離れたところからしか見られないけれども。
 凌が隣に立っても、お互いに何も言わなかった。ガラガラ、ガシャガシャという音とともに、繊細な音色で満ち溢れていた世界が壊され、崩れ落ちてゆく。そもそも、どうしてこのビルにピアノが置かれていたのかがわからなかった。誰かがいらなくなって置いていったのか、それとも別の理由なのだろうか。それは以前佳奈美に聞いてみたが、佳奈美もわからなかったようだ。凌にはなんだか、そのビルの持ち主が関係しているような気がした。
「もう、ここではピアノ弾けないね」
 佳奈美が寂しそうに微笑んだ。
「わたし、明日退院することになったの。そのまま北海道のおじさんの家に引っ越すんだ。引っ越す、って変な言い方だけどね」
 せわしなく動き回る作業員。唸る機械の軋み。壊れゆく惜別の音。
「だから今日でお別れだね。わたしの中学からの友達とも、浦谷くんとも」
 ゆっくりと日が暮れていく。ピアノは既に運び出されたようで、瓦礫だけがオレンジ色に染まっている。
「ま、向こうでもきっと友達できるよ。もちろん、浦谷くんにもね」
 音が消えていく。繊細なピアノの旋律も、ビルを取り壊す破壊的な音も、道路を走りすぎる車の音も、そして、佳奈美の声も……。
「うん。たぶん、何とかやっていけるよ。今までありがとう。楽しかったよ」
 気がつくとそんなことを言っていた。たぶんだなんて、確証はない。でも凌は、以前よりも会話が苦手でなくなっていた。対人恐怖症と思っていたが、それも消えたようだ。要するに、ただの自意識過剰に過ぎなかったということだ。
 すべて佳奈美のおかげだった。今は春休みで、あと数日で新学期だ。クラスが変わっても、きっとやっていける。友達もできる。そんな予感みたいなものが湧き出してきていた。
「わたし、プロのピアニストになるのが夢なの。血の滲むような努力が必要かもしれないけど、いつかステージで演奏したいな」
「なれるよ。絶対なれるよ。だってあんなにピアノ上手いじゃないか。うん、次に会うときはそのときかもな。俺は観客でさ」
 ふふっ、と佳奈美はおかしそうに笑った。今までのどんな笑顔よりも、楽しそうだった。
 最後だけ、凌は佳奈美の車いすを押した。何だか、そうしないといけないような気がしたのだ。思ったよりも随分と軽い手ごたえだったのには驚いたが、その軽さは決して身体的なもののみから来るものではないと思った。
「じゃあ、またね」
 病室の扉の前で佳奈美と別れた。何だかひどく虚しくて、複雑な気分だった。
 
 新学期になり、クラス替えがおこなわれたものの、たいしてクラスメートは変わらなかった。
 親しい友達も数人できた。凌は佳奈美のおかげだと信じ、感謝していた。
 始業式の後、なにげなく音楽室に立ちよってみた。さすがに新学期早々部活はないだろうとの予測は当たり、吹奏楽部は活動をしていなかった。なぜ音楽室なんかに来たかというと、無性にピアノが弾きたくなったからだった。もちろんピアノなんて習ったこともないが、どの鍵盤がどの音を出すのか、それぐらいはわかっていた。片手だけだが、何回か弾いてみた。しかし、自然と知っているメロディーを弾いてみても、うろ覚えのメロディーを弾いてみても、あの繊細で、壊れそうなほど透き通った音は出てこなかった。
 いくつもの涙のしずくがその鍵盤を叩いても、ついぞ佳奈美が奏でたような、ガラスの音色は聞えてこなかった……。
 
 
     - Epilogue -
 
 
 その招待状が届いたのは、あれから五年たったあとだった。最初見たときは誰からの招待状だろうと思ったが、すぐに思い出した。それは、ピアノのコンサートの招待状だった。そうだとわかった瞬間、妙に鼓動が高まっていた。
 佐倉佳奈美は、プロのピアニストになるという夢をついに叶えたのだった。会場は都内の某所で行われるということだったから、それほど有名になっていたのだ。
 凌は単純に感嘆した。こっちは夢なんてものを、はっきりとした形で持ちあわせてなんかいないというのに。佳奈美との出会いがあったのにもかかわらず、夢を持つことができなかったというのに。
 会場へ行く電車の中で凌はそう思った。夢や希望を現実的に叶えられるやつなんて、ごくわずかだろうと思っていた。しかし、佳奈美には才能があった。それは自分も認めたことだった。
 コンサートが終わったら、佳奈美に会いに行こう。凌はそう決めた。またあの笑顔を見に行こう。
 そしたら……。
 そしたらきっと、夢や希望を持つことができるかもしれない。
 
 

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